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第1回研究会での発表内容

1.趣旨説明(河合香吏)

 本研究課題は「人類社会の進化史的基盤研究」として長期的展望にたって進められてきたプロジェクトの第3期にあたるものであり、「他者」をテーマとする。これに先んじる第1期と第2期は、それぞれ「集団」および「制度」をテーマとして、前者は2005〜2008年度(4年間)、後者は2009〜2011年度(3年間)におこなわれてきた。「他者」をテーマとする新規研究課題は、先行する第一期(集団研究会)および第2期(制度研究会)の到達点から出発ないし再出発するものである。そこで、集団研究会および制度研究会で議論されてきた内容をふり返り、それらを引き継ぐ研究課題として「他者」というテーマを位置づけた経緯について記す。

(1)集団研究会

 プロジェクトの主査である河合は東アフリカ牧畜民を対象とした人類学的研究を進めてきた。
 東アフリカ牧畜民は隣接集団間で家畜の略奪の応酬をくりかえすことで知られている。だが、ある民族集団が隣接する個々の集団は「敵」と「身方」といったようにスタティックにわけられるものでは全くなく、敵/非敵の関係は頻繁にかわりうる。こうした錯綜した集団間関係を理解するためには、「集団」とはそもそも何であるのかという本源的な問いをたてる必要があった。そしてこうした問いに人類学的に答えてゆくためには「進化史的な基盤」といった前提に則り、霊長類学、生態人類学、社会文化人類学といった分野の共同研究が有効であると考えられた。集団研究会には上記3分野に加え社会哲学の専門家の参加を仰いだ。
 ここでわれわれがまず注目したのは、ヒトやヒト以外の霊長類が「集まる」というきわめて単純な事実であり、目にみえる「集団」なる現象の具体性に賭けるという姿勢が貫かれた。それは、抽象的な「社会」なるものに還元することなく「共同性」や「共在性」を語る姿勢でもあった。
集団研究会の成果をふたつだけ記す。ひとつめは「非構造概念」の重要性である。ここでとりあげられた集団現象の多くはその場その場における活動中心、行為中心的な非構造の集まりであった。それは「構造化ないし制度化されたsocietyに対して、社会的絆に基づくsocialであって、このsocialこそが集団現象のより根源的なものと位置づけることができる。非構造の集まりは、生活時間に占める割合も決して少なくない、もっと正当に評価されるべき集まりである。サル、ヒトともに、集団の現実の姿とは、そこに何らかの非構造を含んでいることを積極的に考える必要がある。
 ふたつめは「ヒトの獲得した表象能力と想像力」である。ヒトは進化のどこかの段階で、目の前にいない不可視の相手をも「仲間」として認識する能力を獲得したということ、すなわち「いま・ここ」を越えた認識を可能にする言語表象能力を獲得したことに関わる議論である。たとえば出自集団とか民族や国家などの集団を考えればわかりやすいと思うが、ヒトの場合、集団の構成員たちは互いに顔見知りではないということがふつうにある。それは言語による「○○出自集団」とか「○○民族」とか「○○国民」といった言語表象が可能にする事態であり、ヒトに特有な集団のあり方である。このことは人間の集団が言語をはじめとする制度による束ねであることをよく示している。集団研究会に続く研究会が「制度」をテーマとしたのは自然な成り行きでもあった。

(2)「集団」から「制度」へ

 プロジェクトの第2期は「集団」から「制度」へと新しいテーマを設定したが、その際に最低限確信されていたのは「集団なる現象が現にあるのは、そこに他個体/他者との共存、共在のための何らかの原理が働いているから」にほかならない、ということであった。そうした原理が行動として顕わになるものこそが制度と呼べるものであり、ヒト以外の霊長類にも集団が認められる以上、かぎ括弧付きの「制度」、プレ制度、あるいは制度の萌芽といったものが、その行為・行動からみえてくるはずだと考えられた。
制度研が目指したのは、「制度とは何か」を問うのではなく、ヒトとヒト以外の霊長類が共通して持っていたり、いなかったりする制度の進化史的“基盤”が何であるのかを明らかにすることにあった。それは、いいかえれば、人類社会の制度を制度たらしめているのは、どのような生物学的(進化史的/系統的)および社会的特性なのかといった問いでもある。こうした前提にのっとって、さまざまな社会現象が「制度」との異同や関係という側面から検討された。すなわち、「ルール」、「システム」、「歴史」、「生態」などのことである。また、「生態的/社会的条件によって自らの行動を変化させることは制度化の第一歩である」という主張も重要な視点である。さらに、ひとつの大きな仮説として、情動(感情)の問題がある。「制度の情動起源説」と名づけられたこの説は、ある個体の行動が同じ群れの他者によって「ぎょ」とされたり(ネガティヴな驚き)、あるいは「おっ」とされたり(ポジティヴな驚き)する、そうしたことが制度の生成の根底にある、あるいは契機になるというものである。非言語的な社会で他者の行為に対して好悪の判断をするものとして「情動」なるものを考えるのである。さらに、制度は他者との関係の正しいあり方という意味での倫理とも関係があると考えられる。また、複数の個体が同所的に共存・共在する以上、競合や葛藤、あるいはその具体的な顕れである敵対的な相互行為の起きる可能性を否定することはできないが、制度が、そうした敵対的な相互行為を回避する機能を持っていることも確かであろう。それは、制度の「相互作用の不確実性を減らす」機能のひとつとして捉えればよいものである。
 制度について現時点でたどり着いたところを挙げると、(1)制度の原初形態を考えるとき「超越的な存在—神でも法でもよいのだが、そうした外在的な第3項の存在」を想定しなくてもよいのではないか、また(2)パニッシュメントがあるかないかを制度生成の条件とする必要はないのではないか、そして(3)同じ地平上に在る諸個体/諸個人の行動の潜在的可能性を考えるだけで十分ではないか、といったことである。

(3)「集団」、「制度」から「他者」へ

 「制度」に続く第3期のテーマを「他者」としたのは、集団においても制度においてもある個体/個人の行為が「他者」の存在を(暗黙の)前提としていたことが明らかであったためであり、そうであるならば、今度はそれ自体を主題化してみよう、それは翻って集団や制度を再考することでもあり、それらをいわば「逆照射」することになると考えられたためである。ここでは、社会とは「他者との相互交渉の束である」とする立場から、ミクロな対面的相互行為、とりわけダイアディックな関係に着目するいわば実践論的アプローチをとることになろう。「他者」なる存在は、個に対して、どのように現れ、対峙し、関係するのか、それが「社会」なるものの生成・維持にどのように関わっているのかといった問いに向かうことになる。これはさらに個的な他者をこえ、他集団といった集合的な現象をも射程に入れておきたいと考える。
 「集団」、「制度」、とやってきて、そして「他者」が始まった。この3つのテーマは、必ずしも明瞭なメインストリームがもともとあってそのシナリオにそってテーマを決め、議論してきたわけではない。だが、その底流に流れているのは、「共存」とか「共在」とわれわれが言ってきたものだと思う。メンバーのひとりはこの3つのテーマを、「われわれ」すなわち「’we’」意識の明確化の追求ということでつながるという。それはヒトとヒト以外の霊長類における社会的な側面をより重視しているものといえ、人類という種のきわだった特異性がその高度な社会性にあるということからすれば、あたりまえのことかもしれない。

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2-1 「他者」が立ち現れるとき-霊長類の社会から(早木仁成)

 野外で霊長類社会を調査する研究者にとって、対象とする霊長類そのものが「他者性」を帯びた存在なのだが、ここではそのような視点は横において、霊長類社会の中で対象とする霊長類個体にとっての「他者」が立ち現われるのはどのようなときかということを考えてみたい。
 社会の中の個に注目すれば、誕生という場面は「他者」が立ち現われるべき最初の場面であろう。生まれ出た赤ん坊にとって、誕生は母親の胎内から分離されて、突然世界に投げ出されたようなものであり、自他の知覚/認知は形成すべき課題であると思われる。そういう意味では、「他者」は「自己」とともに成長の中で生成される。一方、母親にとって赤ん坊は分離された自分の一部のようなものであるが、自分ではコントロールできない他者としての赤ん坊がそこに出現する。隔離飼育されたアカゲザルの研究などでは、出産直後に母親が赤ん坊を拒否し、攻撃したり異物として扱ったりすることが知られている。野猿公苑のニホンザル群の研究では、若い母親は赤ん坊の扱いが下手で、初産の赤ん坊の死亡率が経産の赤ん坊に比べてかなり高いことが知られている。野生チンパンジーでは、しばしば仲間から離れて孤独に出産するようであるが、出産後に赤ん坊を抱いて集団の中に現れ、他の仲間たちに赤ん坊を見せるような場面がよく観察されている。入れ替わり赤ん坊を覗きに来る集団の仲間たちにとって、赤ん坊は新しい成員としての他者であるにちがいない。チンパンジーでは、そのような赤ん坊をめぐって時折生じる子殺しという現象にも、「他者」という問題がかかわっているように思われる。
 さて、成長のプロセスの中で自己/他者が生成されるとするなら、それはどのようなプロセスなのだろうか。リード(2000)によれば、ヒトの場合、生後3ヵ月ごろまでに乳児は自己のエージェンシーと他者のエージェンシーを理解し始め、外的事象(とくに、動物的事象)についての予期を形成するようになり、自己のエージェンシーのコントロールを学習し始める。また、物のアフォーダンスを選択的に探索し、ある物に固有の特性があることへの予期を身につけ、その予期を自分の運動を通して確証する。そして、大人のジェスチャーと発声のリズミカルな構造を手がかりに、(相手の行動を予期することで、)二項的な相互行為が創発するという。「規則」という視点で見ると、物に対する予期は「規則性」の学習であるのに対して、「他者」に対する予期はコンティンジェンシー(不確実性をともなった随伴関係)の学習であるといえるかもしれない。養育者との二者間でのかかわりを繰り返すことで、習慣的な対処を確立して、なじみの相互行為が形成されるのである。養育者以外のなじみのない者とは、予期を修正しつつ、徐々になじんでいくのだろう。
 ヒトは生後9ヵ月ごろから、一つの物または事象に養育者とともに焦点化する能力を獲得し、環境のアフォーダンスを他者と共有する三項的相互行為(リード、2000)または共同注意フレーム(トマセロ、2008)を発達させる。このような能力が、他者の意図理解や言葉の獲得に重要な役割を果たすと考えられている。また、繰り返し実践される三項的な相互行為が共通の間主観的な場をつくり出すのだとすれば、それは他者への信頼や他者との共感を生み出す場ともなるだろう。
 ヒト以外の霊長類では、このような三項的相互行為がヒトと同様に乳幼児期に発達するという報告はないが、霊長類の社会行動全体を眺めてみると、複数の個体がある一つの事象に焦点を合わせることはしばしば観察される。たとえば、移動を始めるときにはしばしば有力な個体の動向が注目されるし、警戒音が発せられた時には多くの者が警戒すべき対象に注目する。ある個体に対する共同攻撃も三項的である。チンパンジーにみられる集団狩猟や特定個体に対する集団リンチ事件なども三項的といえる。これらの事例では、たしかに三項的な枠組みが成立しているが、ヒトの三項的相互行為にみられるように対象(第三項)への注意を保持しながらそれを媒介項として二者間相互行為を展開しているとはいえない。むしろ多くの場合同一対象に対する行為が同時的に生起したものという理解が可能である。
 ヒト乳児の三項的相互行為に類似しているのは、チンパンジーにみられる「のぞき込み」行動かもしれない。若いチンパンジーはしばしば何かをしている(たとえば、何かを食べるための作業をしている)大人の手元をすぐそばまで接近して熱心に長い間見つめる。見つめられる側は特に取り立てて見つめる者に対する反応を示すわけではないのだが、追い払ったりはしないという消極的な意味で二頭の間に相互行為が成立しているとみなすことができる。
 霊長類の社会は多様であるが、ニホンザルのような母系社会では、母娘のつながりを通した血縁関係が群れ内の個体間関係に大きな影響を及ぼしていることは間違いない。群れ内の一個体に着目して周囲の他個体を眺めてみると、母親や自分の息子娘を含む血縁でつながった者たちとそれ以外の群れ内の者たちとの間には、明らかに付き合い方の相違がある。前者を身内、後者を顔見知りと呼んでおこう。これらの群れ内個体のほかに、時折群れの外から見知らぬ者があらわれる。
 さて、血縁者をそうでない者よりも優遇することをネポチズムというが、ネポチズムには血縁選択による進化といった生物学的背景がある。ただし、動物が自分の血縁者と非血縁者をカテゴリーとして認知しているとは考えにくい。母親が母乳で子を育てる哺乳類では、子どもの時からの近接や接触などのなじみの度合いを指標にして行動することで(長谷川・長谷川、2000)、結果的にネポチズムが生じていると考えられる。そうであるなら、たとえばニホンザル個体にとって、身内と顔見知りの違いはカテゴリカルな質的相違というよりもなじみの程度による量的相違と考えられる。身内と顔見知りというカテゴリーをつくり出すのは観察する研究者の側であって、ニホンザル個体ではない。
 一方、顔見知りと見知らぬ者との相違はニホンザルにとってさえ程度の差であるとはいえないだろう。知っているか知らないか、多少ともなじみがあるかないかという不連続な差がそこにはある。見知らぬ者との出会いにみられる強い警戒と敵対性が、その相違を物語っている。しかし、見知らぬ者はただ排除されるわけではない。たとえば、交尾期に現れる立派な体躯をしたハナレ雄は、群れ内の雌にとってはしばしばきわめて魅力的な存在のようである。そのようなハナレ雄は群れ内の多くの個体から攻撃を受けながらも、隠れて何頭かのメスと交尾をすることに成功する。ハナレ雄にとっては、雌との性関係を手がかりの一つとして、群れ内の個体と知り合いなじむことが移籍を成功させることにもつながる。
 群れ内の身内や顔見知りは、これまでのさまざまな相互行為を通して、程度の差はあれ、なじみの関係を形成している仲間である。お互いの行為はある程度予測可能であり、そのため、共にいることに対してある程度の信頼感や安心感があるだろう。群れの外からやって来るなじみのない見知らぬ者に対しては、そのような安心感はない。集団間の出会いは通常敵対的であり、群れ内の個体からみれば、群れ外の者は仲間ではない者(すなわち敵?)である。しかし、群れ外のたとえばハナレ雄からみて群れ内の者は必ずしも敵対すべき相手ではない。見知らぬ者間の関係はかならずしも対称的ではないようである。
 霊長類の社会は、原則として顔見知りの者たちで構成される集団である。集団内の個体は見知らぬ者に対して排他的であるが、ときに見知らぬ者を受け入れる。移入者は集団内の個体とさまざまな相互行為を繰り返しながら、しだいに集団の一員となる。つまり、見知らぬ者が見知らぬ者として集団に留まり共存するわけではない。人間がつくり上げたさまざまな制度は、このような見知らぬ者との共存可能性を前提にして発展してきたと思われる。「他者」を考えることは、社会の中で共に生きることを考えることであろう。それは、これまでの研究会で議論されてきた「集団」や「制度」の問題を逆照射するように思われる。

エドワード・S・リード(2000) 「アフォーダンスの心理学 -生態心理学への道」、新曜社。
マイケル・トマセロ(2008)「ことばをつくる」、慶應義塾大学出版。
長谷川寿一・長谷川真理子(2000)「進化と人間行動」、東京大学出版会。

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2-2 生態人類学における「他者」をめぐって (曽我亨)

 本発表では、最初に、生態人類学における他者の特徴を際立たせるために、哲学と文化人類学 の分野における他者について概観した。哲学においては、自分以外のすべての人間を他者としてきたことを述べ、他者についての哲学的議論(たとえば間主観性をめぐる議論)が、進化を考える霊長類学者の一部に強い影響を与えてきたことを指摘した。つぎに文化人類学は異民族を他者としてきたことを述べ、他者についての人類学的議論が、表象の政治性に集中してきたことを指摘した。その上で、表象することの政治性を批判することは、文化人類学者にとっては重要な課題であるかもしれないが、ヒトと霊長類との進化史的基盤を検討する際には相応しくないと主張した。
 これらの準備を経て、生態人類学が取り上げる他者について3つ例をあげ、他者の扱われ方を検討した。1番目は、牧畜社会における他者である。牧畜社会において、他者は主に「敵=異民族」として描かれてきた。けれどもこの他者は流動的な関係性を秘めており、友人となったり敵となったり、異民族であると同時に親族であったり、外なる自己として表象されたりすることを指摘した。
 二番目は狩猟採集社会における他者である。集団研の成果(曽我2009)で論じたように、「われわれ」意識の輪郭が、民族の輪郭と常に一致するわけではない。民族というカテゴリーとは別に、対面的なインタラクションの集積としてあらわれる「われわれ」が存在する。本発表では、ピグミー研究を題材に、誰が「われわれ」となり誰が他者となるかは、分かち合いや共住などの日常的なインタラクションの集積によって決まることを指摘した。
 三番目は近代化の中で登場する「他者=友人」について論じ、それがいわゆる伝統文化のなかでおこなわれているインタラクションとは異なるインタラクションによって生成されていることを指摘した。
 これら3つの先行研究とは別のタイプの他者研究の可能性として、他者の曖昧さ、理解しがたさを前提にした上で、ときに人間は自分の問題をすべて他者にゆだねてしまうという現象について、レヴィナスの<顔>をめぐる議論を参照しながら考察した。人間は苦境にあるとき、つまり他者に自己を投げだすとき、人は<顔>として他者の倫理的感情を呼び起こす。その時、人は他者に自己を投げ出す。倫理的にふるまう他者にこそ、自己を投げだし、委ねることが可能になるのだと論じた。ちなみに発表者の関心は、この「自己を投入する存在としての他者」の探求にある。
 最後に、これらの生態人類学的な他者像を踏まえた後、霊長類学とどのように接続し、進化史的基盤を考えることができるかを、各先行研究課題に対応させて提案した。

曽我亨 2009「感知される<まとまり>―可視的な<集団>と不可視の<範疇>の間」河合香吏 編『集団―人類社会の進化』京都大学学術出版会, pp.203-222.

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2-3「他者の理解」から「他者との制作」へ:社会・文化人類学における「他者」(大村敬一)

 この発表では、1980年代から現在にいたるまでの文化人類学において他者がいかに扱われてきたかについて検討するとともに、共同研究会「人類社会の進化史的基盤」シリーズの第3シーズンでの主題である「他者」について文化人類学の立場からいかなるアプローチが可能であるかについて考察した。
 19世紀末から20世紀初頭に、「人類はどこから来たのか、いかなる存在であって、いかなる存在になりうるのか」という問いに人類の諸文化の調査を通してアプローチする体系的な実証科学として誕生して以来、文化人類学は自文化とは異なる文化的な他者について実証的に調査・研究することを方法論的な軸としてきた。しかし、1980年代に、そうした近代人類学の方法論的な軸であった文化的な他者理解の在り方に、「本質主義」と呼ばれる植民地主義的な眼差し(オリエンタリズム)が組み込まれていることがポスト・モダン人類学とポスト・コロニアル人類学によって明らかにされ、近代人類学は自らの方法論を見直す必要性に迫られることになった。民族誌のかたちで文化的な他者を描き出す近代人類学の理論的前提には、差異に溢れているが故に画一的な基準では捉えがたい人々を均一で画一的な近代的主体に押し込めながら支配して管理するための同一性の政治があることが見出され、そうした理論的前提を再考することが求められるようになったのである。
 こうした自己反省を経た文化人類学では、1990年代から今日にいたるまで、同一性の政治とは異なる前提に基づいた他者観や自他関係の可能性が模索されてきた。その際に重要だったのは、単に自省して自らの理論的前提を見直すのみならず、これまで文化人類学によって民族誌のかたちで描き出されてきた人々の他者観や自他関係の在り方を同一性の政治の前提から距離をとって再考し、そこに、近代的な支配と管理のシステムである同一性の政治とは異なる前提に基づいた他者観や自他関係が息づいていることが再発見されるようになってきたことである。
 この発表では、こうした動向に焦点を絞って1990年以後の文化人類学での他者観を検討した。こうした動向には、次のようないくつかの方向性がある。
 (1)単一の基準に基づいて差異を消滅させながら他者を自らのうちに取り込む近代の同一性の政治での提喩的な想像力(たとえば、オリエンタリズム)とは対照的に、多様な基準の差異を残したまま他者と繋がってゆこうとする野生の思考の換喩的/隠喩的想像力を明らかにしようとする動向。(2)自己の外部の他者を自己に同一化することで自己のシステムを維持して拡張する近代の他者化=主体化とは異なり、自己との異質性を維持したまま他者を迎え入れる場所を自己の内部に確保することで、他者性を保持したままの他者と折り合いをつけつつ、その他者と共在してゆく他者化=主体化の方法があることを明らかにしようとする動向。こうした他者化=主体化の方法をとる社会では、そうした他者のための場所が社会それ自体を支える要になっており、自己との他者の異質性が自己を維持するために不可欠であるため、そうした社会は非拡張的なシステムとして閉じつつも(他者を同一化して取り込むのではなく)、他者との交通に開かれた(他者との異質性を保持したまま他者とコミュニケーションする)システムを形成する。(3)たった一つの「自然」という単一の基準のうえに多様な「文化」が構築されるわけではなく、「人間と非人間(モノ)の共同体」が相対的であるとする自然=社会・文化相対主義の立場にたって、多様な「人間と非人間(モノ)の共同体」がそれぞれの多様な基準を維持したまま相互に繋がり合って交流する可能性を模索する「存在論的転換」の動向。
 これら一連の動向に共通しているのは、近代の同一性の政治とは異なる前提に基づく他者観や自他関係の在り方が人類の間に存在しており、その多様な他者観や自他関係の在り方が人類の社会の在り方に多様性をもたらしているという認識である。この意味で、現在、文化人類学は自省の時代を乗り越えて、人類の多様性を検討することを通して人類とは何かを探るという本来の任務に立ち返りつつあると言える。また、こうした文化人類学の現在の動向は、他者を自己の基準で理解することによって他者を自己に同一化してしまうのではなく、自己との他者の異質性をそのままに維持しながら他者と交通しつつ、多様な他者が共在する世界を他者と共同で制作してゆこうとする方向に舵を切ったと言えるかもしれない。
 こうした動向にある文化人類学は、本共同研究会「人類社会の進化史的基盤」シリーズの第3シーズンでの主題である「他者」の問題について、人類の諸社会における他者観や自他関係の多様性を示し、その多様性を支えている人類社会の進化史的基盤を考察することで貢献することができるだろう。また、人類の他者観や自他関係の多様性を通してその多様性の進化史的な基盤を追求することは、本共同研究会のシリーズ全体の主題、すなわち、人類における集団や制度の多様性を通して人類社会の進化史的基盤を考察することに通じることになる。オリエンタリズムの他者観が同一性の政治という集団や制度の生成原理と表裏一体であることからわかるように、他者観や自他関係は集団や制度の在り方と密接に結びついているからである。

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第3回研究会での発表内容

1.「野生動物の『ハビチュエーション』について」(山越言)

 ヒトは太古より、狩猟採集・牧畜・農耕といった生業に対応して、大型野生獣との間に追跡、忌避、馴致、依存といったさまざまな関係を築いてきた。ヒト側が野生獣との近接関係を維持し許容する関係としては、家畜化のプロセス、宗教的禁忌に基づく許容などが挙げられよう。さらに近代以降には、動物生態学者による野生個体群の観察や、野生動物観光・エコツーリズムという関係のあり方が新たに加わった。
 今日のアフリカの野生動物観光をめぐる潮流には、植民地時代から継続する富裕層による狩猟サファリを基盤とした対立的関係と、保護区内で馴致した大型野生獣を対象にした大衆化した非消費的接近観察(フォトサファリ)がある。両者は動物の人馴れにかんしては対立関係にあり、現在主流となっている後者が、東アフリカの自然保護制度史のなかで、どのように発展して来たのかは興味深いテーマである。
 また、動物生態学の中で特例的に直接観察を重視する傾向にある霊長類研究者は、対象個体群をさまざまな方法で馴致してきた。餌づけ、人づけやその他の多様なアプローチが考案されてきたが、保全の立場から馴致そのものの持つ負の側面も指摘されてきた。馴致を基盤とした近代霊長類学のパイオニアの一人である今西錦司が、霊長類研究を発想する以前に、内蒙古での研究に基づき、馴致による家畜化のプロセスについての独自の仮説を提示していたという符合は興味深い。近年興隆を見せている、森林性のゴリラやチンパンジーを対象にした観光は、馴致された個体群を対象にした観察、という霊長類研究的なアプローチの発展型と考えられ、スポーツハンティングを原型として発展したサバンナにおけるサファリ観光とは異なる出自を持つと考えられる。
 ギニア共和国ボッソウ村は、村人から祖霊の化身と信じられている野生チンパンジーが、村落周辺の里山的森林に生息していることで世界にその名を知られてきた。奈良公園のシカと同様に、宗教的禁忌により野生動物が人の生活と隣接して生息することを許されている一事例である。現在ボッソウの野生チンパンジー個体群では、人獣共通感染症の潜在的脅威、村人に対するチンパンジーの攻撃事例の増加、畑荒らしの被害の増加、移入個体の不在による個体群の高齢化といった保全上の諸問題が顕在化している。いずれもその根本原因として、過剰な人馴れが想定されるため、これ以上の人馴れを防ぐための早急な対策が求められる。研究目的であれ観光目的であれ、意図して人と大型野生獣との距離を縮めようとする場合には、人馴れのネガティヴな側面に配慮した、慎重な倫理デザインが必要である。

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2.「見えない他者、非在の他者:カミなどのあり方をめぐって」(内堀基光)

1. 射程の取り方

1-1. 大きな射程の取り方

進化的には「他者」認知とインタラクションの有りようの異同(の比較)が問題なのだろうが、これを民族学プロバー領域で行うとどうなるか:その困難と可能性を問うことが、まずははじめに立てられる課題である。
「他者」観念と進化とどう関連づけるのか:ヒトとヒト以外の霊長類比較という比較のレベルならば、たとえば、チンパンジーとニホンザルとヒトとの間の異同研究はできるわけだが(cf.明和2004)。まさかミラーニューロンレベルの話まで持ち出す必要はないだろう。

1-2.小さな射程の取り方:民族学で(人類学者の対象としての他者、ということはここでは考えない。これはこの研究会の主旨とは別のところにある課題である)

社会的文脈で「自-他」とは言うが、民族学的にはおそらくこのことの実証やら実例を挙げて論じることが求められるのだろうが、このレベルの議論はどこまで理論的なテーマとして掘り下げられるか。社会(文化)的文脈と「発達」の問題などは語れるだろうが、すでにたくさんの蓄積のある「育児研究」のようなものになってしまいそう。
民族学的自己-他者論を意味論的にしてしまうと、person(hood)論のようなものになりそうで、これまたあまり新奇なことはない。

2. 人類社会における「他者」 「他者」の一般的価値づけ方

他者の位置:否定的価値をもつ他者と中立的価値・肯定的価値をもつ他者者他者と「他人」とのあいだ
他者をわざわざ他人と呼ぶこと
排除と包摂という文脈での他者これはいくらでも民族誌の中で論じられようが、問題は排除の基盤をどのように理屈づけるかである
最終的には極端なエスノセントリズムまで至る「他性」の形成(=創出・構築)集合としての他者のことを考える、このとき他者でない他者=仲間が前提となってくる。他者は目の前にいる個体ではなく、あるカテゴリーに属するものとしての他者になる。
悪評高いvandenBergheの論のような社会生物学のパロディ(のようなもの──本人は真剣なのか?)もあり、進化との関連では、こうしたものをまったく無視というわけにもいかない。他者を目に見えるかたちで作り上げることは、自他集団の境界設定の提要である。こうした「見えやすくされた」他者の具体的形成プロセスは歴史学の課題だが、意味あるしかたでそれをどこまで抽象化して論じることができるか。

3. 見えない他者と、その存在を「感覚」するとき

単なる表象ではない「見えない他者」見える他者と見えない他者の位相の違いはどこにあるかDurkheim流の社会(集団)のsublimation議論に乗ってしまえば簡単だが
非在の他者としての死者の特権性について現実的な互酬的交渉を閉ざされた関係における「虚構」の意義
カミはいかなる文脈、意味合いで他者になるかこれが「見える」ときのことを考えてみる(→次節へ)
マレビト論までここではない「どこか」の比較超越性(?)とのかすかなパイプ

4. 他者が他者でなくなるとき

上の文脈で、他者はどこかで他者でなくなる例外時・例外場をもつことにより、十全の意味で他者としての機能をもつのだろう。また、自己と自己の同位の他者(いろんな近い他者も含む)との相違はどこにあるかということに注意が向くとき、別の可能性が出てくる。簡単に言ってしまうと、他者の自己化/自己の他者化、といったことさらには、異なる存在レベルの他者との/への融合≒差異の無化などの可能性内なる見えない他者superegoでもあるし、「心の鬼」のようなものでもありうるし、こうした自己の反照としての他者が、ある具体的なイメージをとることがある
人であるような/人でないような他者の現れ一般論として、他者の存在空間の広がりと、他者像の多様化が進むことの意義→自己を自己として語ることなく、自己を規定しやすくなる(ということか?)

5. 他者論の民族誌:実践練習 イバンにおいて語ってみよう

orang bukaiという表現について、kabanの反対概念イバン語におけるorangの意味論
iban, antu , petara, jelu,ほかの「ものもの」自己アイデンティティの階層: 個体として、集合として多様な他者とのインタラクションの位相
他者というよりHallowellの用語法における行動空間における「異族」の出現
これは行動空間の拡大のもっとも明白な現象である(たとえば)Tuanの位置について→chelumであるものでないもの生活における同一性と異質性の認識について

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第4回研究会での発表内容

1.「他者=『敵』にも『友』にもなりうる存在」(北村光二)

1.サル社会における「同種他個体」とのコミュニケーション

1)毛づくろいの(誘いかけの)コミュニケーション
・「自己」とある特定の関係を持つことになる者として不確実な存在である「他者」との関係づけの試み=「誘いかけのコミュニケーション」
・このコミュニケーションが手がかりとなって一緒に毛づくろいをするという相互行為システムが構成されるためには、「相互行為の枠組みの選択が当事者間で一致しない」という問題への対処が不可欠となる
・ニホンザルでは、この問題への対処として、他者に毛づくろいを提案するときに、それを受容する可能性が高い個体を選んでそうする ‐母親と娘の間の「親しい関係」のような、「既定的な関係」にある相手を選択する
2) 敵対的衝突回避のコミュニケーション
・相互に影響を及ぼし合う可能性のある者として不確実な存在である「他者」との関係づけの試み
・無秩序の可能性が顕在化した状況で、それを回避するためには、「当事者それぞれが志向するゴールが両立しえない」という問題への対処が不可欠となる
・ニホンザルでは、この問題への対処として、相手との「優劣関係」という「既定的な関係」があることにして、その関係にもとづいて劣位者の側が「ハト派」になる

2.チンパンジー社会における「仲間」とのコミュニケーション

1) 食物分配(に先立つコミュニケーション)
  • ある個体が食物を把持しているという状態で、非所有者がそれを獲得しようとして所有者に要求しながら、相手がそれを拒否してもそれに対抗せずに、あくまでも肯定的な反応を待とうとし続けるところで、所有者側も、「相手との敵対的な行為接続を回避する」という相互の関係づけの枠組みを受け入れて、大げさに騒ぎ立てないようにするという対応を取るようになる(枠組みの共有)
  • 要求する行為であれ拒否する行為であれ、そこに作り出されつつある相互行為システムに組み込まれることになるそれぞれの行為は、非敵対的な共存状態を作り出すことを志向する行為という性格を獲得するようになることで、その相互行為システムがより安定的に再生産されるものになる
  • そのような相互行為における当事者たちの相互応答的な探索の後に、所有者による食物の譲渡がなされるか、それがないままに非所有者がその獲得をあきらめて立ち去るということになる
2) 対角毛づくろい
  • 一緒に居合わせることになりながら何もしないでいるときの不安定な状態において、誰もがそう考えるはずのこととしてある「秩序だった共存状態」を実現するために、何らかの相互行為的出来事をその場に構成することを想定する
  • 相互行為的出来事の構成を自分から主導してでもなく、相手に従属してでもなく、双方が同じ準備状態にあることそれ自体を根拠に実現しようとして、この「対角毛づくろい」を実行していると考えられる

3.人間の社会における「他者」とのコミュニケーション

1)「情報」の「伝達」としての発話によるコミュニケーション
  • 「自己」とある特定の関係を持つことになる者として不確実な存在である「他者」との関係づけの試み=「会話」
  • 「会話」は、基本的にどんな相手(不確実な他者)とも実行可能である
     ‐他者との関係の複合化・分化に向けた共有されるコンテキストの拡充
2)禁止の規則に従うことによる「安定的な共存状態」の実現
  • 規則は、基本的にあらゆるメンバー(不確実な他者)に適用される
  • 「ある個人の所有するものは、所有者の同意なしに獲得・消費してはならない」という禁止の規則に従うことによって安定的な共存が維持されているところで、所有者からそのものが積極的に分与されることによって、その後、両者の間には、「友人・縁者」どうしという関係(贈り物をし合う関係)が成立したと見なされることになる
3)儀礼の規則に従うことによる「無秩序の解消=秩序の回復」の実現
  • 何らかの要因によってある特定の無秩序がもたらされたと考えられるところで、儀礼の規則が指定するある特定の相互行為的出来事をその場に作り出すことによって、「問題となる無秩序の解消=秩序の回復」という期待される結果を実現しようとする
     ‐それによって、少なくとも、それを「自分たちのやり方」だと考えている人々の間に、安定的な共存の秩序が回復されることになる

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2.「霊長類の集団へのアイデンティティ」(黒田末壽)

1 霊長類学からの他者をアイデンティティから考える

 霊長類社会学の分野で「他者」という概念が論じられたことは、いままでにない。
 他者概念を導入するには、自己とか自我の概念をどこまで適用できるか曖昧さが残る霊長類に、その意味があるのかという根本的問題があるが、まずは、他者=ある個体にとってそのあり方に影響を与え、何らかの変化をもたらしつづけるような存在(他個体)としておこう。この定義では、たとえば、チンパンジーやボノボならば、アルファー雄に挑戦する若い雄の出現は、おとな雄たちにとって、それまで従順だった個体が突然手強いライバルに豹変する現象で、彼に対する態度や振るまいが変化し、同時におとな雄仲間の関係を確認することが生じる。だから、若い雄は他者として登場することになろう。また、他集団から発情した雌がくれば、彼女と新しい関係を 築くことになるから、集団の全員にとって彼女は他者である。母親が新生児をもてば、それへの対応が生じただけでなく他の個体との交渉パターンも変えるが、それが自己のふるまいを意識して変えているなら、新生児は母親にとって他者であると言える。
 だが、他者という言葉で、これらのことがらになにか新しい理解が得られるかどうか、私にはまだわからない。そこで、他者の代わりに、他者との関係で形成されるアイデンティティについて検討する中で、他者概念適用の創造性があぶり出てくるか、どうかを考えてみる。

2 霊長類社会学におけるアイデンティティ

 人間では自己アイデンティティが中心概念になるが、霊長類社会学ではそれは困難な思考対象で、アイデンティティが議論されたのは、今西による「アイデンティフィケーション仮説」と伊谷による集団への帰属意識(社会的アイデンティティ)である。
 今西のアイデンティフィケーション仮説は、ニホンザルの雄の子どもがリーダー雄にアイデンティファイして群れ本位の行動を身につけるというもので、それは刷り込みのようなメカニズムであるが、後天的社会的に獲得される行動型であるから文化の1種である。しかし、今西はこのとき、ニホンザルの雄が出自集団を出ることをまだ認識していなかった。伊谷はこのことを指摘して、今西のアイデンティフィケーション仮説は単純すぎると批判し、母系型社会集団をもつニホンザルではなく、父系型社会集団のチンパンジーで考えるべきとして修正している。チンパンジーでは、アルファー雄にアイデンティファイしたかのように振る舞った子どもがやがて見習ったアルファー雄に挑戦してトップに立った例が報告されている(グドール)。伊谷は、子殺しをしカニバリズムをおこなう雄たちに子どもの雄がアイデンティファイして、暴力性を身につけ、集団内では子殺し、集団間では闘争集団となる可能性を論じた。
 集団への帰属意識は、伊谷がニホンザルの若い雄のふるまいで論じている。隣接集団に移籍した雄たちが、手のひらを返したかのように、出自集団と対決する前線に出て吠えつき攻撃する現象を、集団へのアイデンティティの転換と形容した。
 これらのアイデンティティの議論から、他者をあぶり出すには単純な論理ではうまくいくようには見えない。
 アイデンティティ形成がオートノミーのように見えるからである。これを越えるには、より詳細な検討と、アイデンティティの別の側面を調べる必要がある(続く)。

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第5回研究会での発表内容

1.「環境を共有する者としての他者」(竹ノ下祐二)

 生態学とは生物と環境の相互作用を考える学問である。生態学における環境とは,生物(個体)をとりまき,それと相互作用する生物的または非生物的事象の総体である。本研究会のあつかう「他者」が「自己」と対峙し関わりをもつ—相互作用する—存在だとするなら,他者は広義には生態学でいう「環境」に含まれることになる。
 しかし,環境のすべてが他者とはいえない。他者は環境の一部である。つまり広義の環境は≪他者≫と他者以外の環境(以後≪環境≫)に区分される。果たして生態学においてそのような区分に意味があるだろうか?ニッチ理論を手がかりに考えてみたい。
 ニッチに関して現在ポピュラーな考え方はハッチンソンが整理した。ニッチとは,気温や湿度,日射量,降水量,栄養塩類の濃度など,生物の存続を制限する要因を組み合わせたn次元空間である。
 ハッチンソンはさらに,基本ニッチと実現ニッチに区別した。捕食者や競争する他種が存在しない場合,生物は十分に大きなニッチ空間を占めることができる。これが,基本ニッチである。一方,自然界では生物が基本ニッチをそのまま占有できることはまれで,実際には捕食者がいたり,重複するニッチをもつ競争者がいる。その場合,生物が実際に存続できるニッチ空間はそうでない場合より小さくなったり変化したりする。これが実現ニッチである。
 ここで疑問が生じる.ある生物の基本ニッチの実現を阻むのは,いったい何者だろうか?
 ハッチンソンのいうn次元空間はほとんど「環境」と同義である.ならば,捕食者や競争者も,原理的にはニッチ次元の一つ,すなわち環境の要素としてモデルに組み入れられるべきである。だが,競争者や捕食者はニッチの構成次元から区別され,当該の種とニッチ空間を共有し,≪環境≫との相互作用に干渉する存在,すなわち生態学的≪他者≫である。
 ニッチ理論の中に≪他者≫を見いだすことはできたが,生物群集を構成するある種にとってどの種が≪他者≫で,どの種が≪環境≫なのか。それを決めるロジックを,現在の生態学は持っていない。たとえば,中部アフリカにはゴリラとチンパンジーという2種のヒト科類人猿が同所的に生息しているが,ゴリラにとってチンパンジーを競争者すなわち≪他者≫なのか,それとも制限要因すなわち≪環境≫なのか。われわれは前者だと思いたいけれども,それには根拠がない。食物や遊動様式に共通性があることを根拠にするならば,やはり同所的に生息するゾウはWhiteがいうように「名誉類人猿」として≪他者≫の地位を与えられるべきである。ではマンドリルは,グエノンは,果実食のコウモリは,どうなるのだろうか。≪環境≫と≪他者≫の区分は論理的には決定不能である。
 しかし少なくとも,当のゴリラは,群集を構成する生物たちを,≪環境≫と≪他者≫とに区分している。それが如実にあらわれるのが"人づけ"のプロセスにおいてである。類人猿の人づけプロセスにおいて,われわれ観察者は当初ゴリラにとって生存を制限する要因の一つであったが,人づけの進行につれ,ヒト,ゴリラが相互に個体識別をし,さまざまな社会交渉が可能になった。同じことがゴリラとチンパンジー,あるいはゾウその他の動物との間でおきても不思議はないはずだ。

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2.「他性をめぐる哲学小史」(熊野純彦)

 他性(altérité)をめぐる哲学的思考の歴史は、プラトン以来の伝統を有している。それは基本的に「同le Même」と「他l’Autre」とのかかわりをめぐって展開されてきたといってよい。
 「同」はみずからとひとしいかぎり「同」であり、「他」とはことなるかぎりでは、それじたい「他」でもある。「他」はそれが「他」であるかぎり、まさに「他」そのものであると同時に、じぶんとひとしいものである以上は、みずからはまた「同」でもある。基礎カテゴリーをめぐるこのようなことの消息は、アリストテレス以来の「ヘテロス・アウトス」つまりalter ego(他我)にかかわる思考にも、その影を落とすことになるだろう。Alter egoとは、あらかじめ、egoであるとともに、egoとはことなる(alter)ものであると規定されているからだ。
 ほんらいの意味での「他者」つまり人間的他者が主題化されたのは、とはいえ、デカルトによる「考える私」の発見以降のことである。「私」「自己」の哲学的焦点化を俟ってはじめて「他者」をめぐる問題系もまた主題化されることが可能となったからである。Cogitoとは「「私」は考える」であって、cogitamus(「私たちは考える」)ではない。それでも、コギトはいったいどのような理路をたどって、コギタームスへといたることができるのか。この問いが、デカルトの設定したみちすじのうえに展開された、近代哲学における他者論の問題設定にあって、その基軸をかたちづくるものとなる。かくしてそこでは、alter egoが同時にegoである事情こそが解明されるべきものとなったのだ。
 このような問題の地平そのものを、「同」の優位として批判するところに、現代の哲学的他者論は開始される。ごく図式的にいうならそこでは、alter egoがむしろまさにalterであるゆえんこそが主題化されるにいたることだろう。「絶対的他者」という(中世キリスト教神学における神の規定をも想わせる)対抗的レトリックが指示しようとするものは、「他」者であるかぎりで、自己から無限な隔たりをもって距てられている他者に帰属すべき、その他性(Andersheit)そのものにほかならない。
 他者は私にとって、もはや手の届かない過去のように遠く、いつまでも手の届かない未来のように遥かである。たとえばそう語られるとき、そこにふくまれる、しばしばロゴスを逸脱したロゴス、ロゴスを超えたロゴスが示しているものは、「同」へと回収されることを拒みつづける他者、「他」でありつづける他者という、語りえないものをあえて語りだそうとするこころみなのである。

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第6回研究会での発表内容

1.「動物の他者論」(中村美知夫)

 一般的な感覚で言えば、「他者」というのは自己に対する他者である。哲学や人類学などで他者が問題にされる際には、まずこれら双方(自己と他者)がヒトという種であることが暗黙のうちに想定されていることが多い。だが、「人類社会の進化的基盤研究」という立場から他者を問題にするならば、そもそもヒト以外の動物が他者でありうるのか、動物にとっても他者は存在しうるのかという点をまずは検討せねばならない。本発表では、他者=ヒトという前提をまずは排除した上で、どのように動物の他者論を展開しうるかを考察した。
 「他者」という語には、二つの相反する含みがある。日常的感覚として「私」と似ている―ゆえに分かり合える―という含みと、厳密には「私」とは違う―ゆえに分かり合えない―という含みである。それ以外にも、異なる研究分野によって、「他者」が示す範囲や対象が異なっていることは、共通の議論をしていく際に大きな問題となる。そこで、まず本発表では、誰にとっての他者かという視点から、人間⇔動物、個⇔集団という二つの直行する座標軸を考え、そうしたさまざまな研究分野での「他者」概念がそのどこに位置づけられるのかを概観した。
 次に、人間にとっての他者と動物にとっての他者の二つを対比させて、「○○を持っている」(○○には主体性/心/魂/理性/認知能力などが入る)、「××ではない」(××には、たとえば日本人/村人などが入る)、「社会的にインタラクション可能」という三つの基準によって「他者」を捉え直すことを試みた。その上で、暫定的に第三の基準に従って、「動物にとっての他者とは、その動物と実際に社会的にインタラクトするかもしくはそうすることが可能であると思える相手である」と考え、野生チンパンジーの、同種個体(同集団/他集団/想像上の個体)や他種の動物(アカコロブス/イボイノシシ/ヒトなど)が他者と言えるのかどうかを、境界的と思われる事例を紹介しながら検討した。
 以上のように、本発表では、人間や、人間的な心を前提とせず、なるべく広く「他者」を捉えるという立場を取った。他者とは社会的な相手であるという立場に立てば、他者はさまざまな動物種に広く認められることになる(少なくとも観察者がそのように捉えることは可能である)し、種内に限定される必要もない。
 動物は、同種・他種の動物とさまざまな形でインタラクトする。しかし、そうしたインタラクションのどこまでを「社会的」と呼びうるのかは、簡単には決められない。さらには、「社会的」という際の中身は分類群によっても異なりうるだろう。こうした点については今後さらなる検討が必要である。
 また、動物にとっての他者を問題とする場合、観察者問題が生ずることも忘れてはならない。すなわち、観察者自身と対象とが似ていると「他者」を読み込みやすいとか、観察者側の表象能力や想像力によって観察者が勝手に対象動物に「他者」を読み込んでいるといった可能性は常につきまとう。
 最後に、「他者」は進化するか、という問題についても考察をおこなった。社会的にインタラクトできるもしくはインタラクトできる可能性を持った相手が他者であるとすれば、他者の進化を問うことは、社会的インタラクションの進化を問うことである。社会的インタラクションは、遺伝的な基盤をベースとしながらも、遺伝子とは別のルートで社会的に継承されうるシステムの一つである。進化を継承されるシステムの時間的な変化と捉えるならば、当然社会的インタラクションは進化する。そしてそこに現われる「他者」もまた進化しうると言えるだろう。

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2.「集団を生成して維持する想像力:イヌイトの拡大家族集団にみる『子どもの他者化』と『野生動物の異者化』」(大村敬一)

 この発表では、関係が想像される際の視点の違いに着目して関係のあり方を(1)「システム/環境」関係、(2)閉じた自異関係(関係内部に閉じた「自己/異者たち」関係)、(3)自他関係(「自己/他者」関係)、(4)開いた自異関係(関係の外を巻き込んだ「自己/異者たち」関係と「自己たち/異者たち」関係)の4つに類型化し、その類型に基づいてイヌイトの拡大家族集団が生成されて維持されるメカニズムを分析することで、想像力を介した社会関係の組織化が人類の社会集団の生成と維持にあたって重要な役割を果たしていることを指摘した。

I 関係の類型論
(1)「システム/環境」関係
絶え間なく自己生成するシステム(原理的には細胞でも神経組織でも何でもよいが、ここでは生物個体を想定している)が絶え間なく自己生成することで生じ、維持されるシステムとその環境の関係。この関係では、システムの「内(システム)/外(環境)」の区別が生成されるが、その「内/外」の区別が「自己/異者」として意識されて客体化されることはない。つまり、「外(環境)」は「システム/環境」の界面での相互作用を通して知られるだけで、その外延は外に向かって無限に発散し、まとまりをもつ対象として客体化されることはない。また、「システム/環境」関係全体の外側が想像されることも、その外側から「システム/環境」関係の全体を客体化する視点が想像されることもない。そのため、この関係では、システムが自らを自己として意識することも、「システム/環境」関係の二つの項(「システム」と「環境」)が相対化されることも、この二つの項が互換的になることもない。

(2)閉じた自異関係(関係内部に閉じた「自己/異者たち」関係)
「システム/環境」関係の区別が意識され、システムがシステム自身を「自己」として意識し、その環境を「異者たち」の集合として客体化するが、その「自己/異者たち」関係全体の外側を想像することも、その外側として想像された視点から関係全体を客体化することもなく、「自己/異者たち」関係に埋め込まれた「自己」の視点のみに基づいて「異者たち」と相互作用を交わす関係。ここでは、現実の相互作用のなかにある「自己の視点」だけがあり、その「自己の視点」が相対化されることはない。この意味で、この関係は自己中心的な関係であり、そこでは、「自己」に対する配慮はあっても、「他者たち」に対する配慮はなく、「自己」は行為の主体となっても「他者たち」は行為の主体にならず、ただ反応を返してくる客体にすぎない。

(3)自他関係(「自己/他者」関係)
「自己/異者たち」関係にある「自己」が想像力によって「異者たち」に「自己」を投影することで、「自己」も「異者たち」もともに相互行為の主体となることで生じる。この関係では、二つの主体のどちらもが、想像された相手(他者)の視点から相互に自己を客体化しつつ相対化しながら相手(他者)と相互行為を交わし合う。そこでは、二つの主体のどちらもが、(1)現実の自己と(2)その自己を客体化する相手(他者)の視点として想像された自己(想像された自己としての他者)に二重化され、「現実の自己としての自己」の視点と「想像の自己としての他者」の視点の間を行き来することを前提に相互行為する。つまり、「現実の自己の視点」に加えて、その自己を客体化する「他者としての自己の視点」が想像され、二つの主体のどちらもが「現実の自己としての自己の視点」と「想像の自己としての他者の視点」という二重の視点に立つという前提のもとで、自己と他者が相対化されて互換的な項に変換される。この関係は、「私は他者になり変わり、その際に他者も私になり変わる人物として理解されるが、この事実を私も他者も了解している」ことを前提に相互行為が展開される事態としてアルフレッド・シュッツが定義したコミュニケーションでの関係に相当し、主体と主体を対等につなげる社会性の基礎となる。ここでは自己と他者は相互に互換的で対等な項として想像され、その想像された前提に基づいて相互行為が展開されるため、結果として対等な関係が生成する。この関係は誰に対しても何に対しても事実上無限に拡張してゆくことができるため、人類個体を同種他個体やそれ以外のものと結びつける接着剤として社会性の基礎となるが、その無限の拡張性のため、一つのまとまった集団に収束することはない。

(4)開いた自異関係(関係の外を巻き込んだ「自己/異者たち」関係と「自己たち/異者たち」関係)
自他関係にある複数の主体のうちの一つの主体が、その自他関係の網の目から切り離された者として想像され、その想像に基づいて、それ以外の主体と一方的な行為を非対称に交わす関係。この関係には、(1)切り離された主体が自己で、それ以外の主体たちが異者となる場合、(2)切り離された主体が異者で、それ以外の主体たちが自己たち(われわれ)となる場合の二種類がある。前者の場合、自他関係の網の目から切り離された立場として想像された主体が、残りの主体たちと相互行為を交わすことなく、その異者たちとしての主体たちを一方的に観察するという想像の場をもたらし、社会科学の基礎となる関係を生成する。他方で後者の場合、自他関係を交わし合う自己たちが、自他関係の網の目から切り離された異者と相互行為を交わすことなく、その異者に一方的な行為で働きかけるという想像の場が生成される。この後者の場が想像され、その想像に基づいて行為が生成されるとき、一つの異者に対して一方的な行為で働きかける自己たち(われわれ)が生成され、無限に拡張する自他関係が、一つの異者に対して一方的で非対称な行為で働きかけるという共通項をもつ集団として分節される。その結果として、主体を結びつける接着剤として社会性の基本ではあるが、無限に接続可能で拡散してしまうためにまとまりのない自他関係のネットワークから、異者に対する一方的で非対称な関係を軸に生成する集団のまとまりが切り取られ、「われわれ」という集団が生成する。

II イヌイトの拡大家族集団の生成と維持のメカニズム
この4類型の関係のあり方に基づいて分析を行うと、カナダ極北圏の先住民であるイヌイトの拡大家族集団が生成されて維持されるメカニズムを次のように整理することができる。

(1)野生生物の異者化:集団外部との関係の制御による拡大家族集団の生成と維持
拡大家族集団の外部における狩猟の場で「自他関係」に基づいてイヌイト個人(ハンター)が相互行為を交わす「他者」としての野生生物個体が、屠殺を通して「異者」としての「肉(食べもの)」に変換され、その「異者」としての肉が拡大家族集団の内部に持ち込まれて分かち合われることで、「われわれ」としての拡大家族集団が生成されて維持されると同時に、その「われわれ」(自集団)と互恵的な関係にある野生生物種が他集団として生成されて維持される。ここでは、イヌイト個人(ハンター)との「自他関係」にある野生生物個体が、屠殺と拡大家族集団内部への取り込みによって、イヌイト個人(ハンター)という「自己」と対等で互換的な関係にある「他者」としての地位を奪われると同時に、拡大家族集団の内部でその成員から一方的に共有される(食べられる)「肉(食べもの)」という「異者」に変換される。そのうえで、その「異者」という「肉(食べもの)」に対して拡大家族集団の成員が「開いた自異関係」(関係の外を巻き込んだ「自己たち/異者たち」関係)に基づく「分かち合い」という非対称で一方的な相互行為を行うことで、それ以前からあるイヌイト同士の「自他関係」のネットワークを維持したまま、拡大家族集団というまとまりが切り出される。また、この「他者」から「異者」への変換によって生成された拡大家族集団というまとまりに基づいて、そのまとまりという個体間関係よりも一つ上の次元にある集団のレベルが想像されるようになり、「異者」としての「肉(食べもの)」に変換された野生生物個体が属するはずの野生生物種が、「自集団」と互恵的な関係を結ぶ「他集団」として想像されるようになる。こうして、「拡大家族集団というイヌイトの社会集団」と「拡大家族集団と互恵的関係を結ぶ野生生物種」という二つの集団が生成されて維持される。

(2)子どもの他者化:集団内部の関係の制御による拡大家族集団の生成と維持(リクルートの過程)
拡大家族集団に一つの「システム」(個体)として生まれ、拡大家族集団の大人たちと「システム/環境」関係を交わすことからはじめる「幼児」に対して、大人たちが「開かれた自異関係」(関係の外を巻き込んだ「自己たち/異者たち」関係)に基づく非対称で一方的な行為(一方的に愛情を注ぐ)で働きかけることで、「システム/環境」関係の「システム」として自己意識をもたない「幼児」は、(1)「閉じた自異関係」での自己中心的な「自己」としての「子ども」を経て、(2)対等な「自他関係」での「他者」としての「大人」に変換されてゆく。この変換の第一段階では、「幼児」を「一方的に甘やかす」という方法、第二段階では、「子ども」を「一方的にからかう」(イヌイト社会においては、「甘やかし」と並ぶもう一つの愛情の注ぎ方)という方法が採られる。このとき、「大人」たちの視点からは「幼児」も「子ども」も「開いた自異関係」における「異者」だが、「大人」たちは「幼児」にとって「環境」、「子ども」にとっては「閉じた自異関係」における「異者たち」となる。この過程では、(1)生物個体という「システム」としての幼児から、大人たちと対等で双方向的な「自他関係」を交わし合う「他者」としての自律した「大人」が生産され、拡大家族集団の成員が補充されリクルートされるだけでなく、(2)対等に双方向的な「自他関係」を交わす自律した「大人たち」が、「開かれた自異関係」(関係の外を巻き込んだ「自己たち/異者たち」関係)に基づく一方的で非対称な行為(一方的に愛情を注ぐ)で「幼児」と「子ども」に働きかけることで、対等で自律した「大人」たちの集団である拡大家族集団が生成される。つまり、拡大家族集団の生成と維持がその成員のリクルートと同時に行われる。

III 集団を生成して維持する能力:想像力による関係の変換と組織化
こうした集団の外部と内部の関係の操作と制御によるイヌイトの拡大家族集団の生成と維持のメカニズムから次の二つのことがわかる。

(1)想像力による関係の変換を通した個体の変換(「システムとしての幼児」から「異者としての子ども」を経て「他者としての大人」へ;「他者としての個体」から「異者としての肉」へ)を媒介に、(1)自律したイヌイトの「大人」同士の対等な「自他関係」という個体レベルの自他関係、(2)自集団(イヌイトの拡大家族集団)と他集団(野生生物種)という集団レベルの自他関係、という二つのレベルの自他関係が生成される。
(2)想像力による関係の変換によって、対等な「自他関係」にある自律した他者たちを一方的かつ非対称にひきつけるブラックホールとしての「異者」(「異者としての肉」と「異者としての子ども」)を生成し、そのブラックホールに対して一方的で非対称な行為で共通に働きかけることで、自律した「他者」たちの対等な「自他関係」を温存しつつ、一つの社会集団にまとめ上げることができる。

このことから人類の社会集団の生成と維持に関して次の仮説を導き出すことができる。
(1)人類の社会集団が生成されて維持される際には、社会集団の再生産に必須の資源を(i)外部から取り込む過程と(ii)内部から生み出す過程を想像力によって制御すること(変換と組織化)が要になっている。
(i)外部から取り込む過程:集団内の個体の生存に必要な資源を外部から取り込む生業システム(「他者」としての野生生物個体を「肉」という「食べもの」という「異者」に変換して取り込む)。
(ii)内部から生み出す過程:集団の再生産に必要な自律した他者の集団内で生成する生殖と養育のシステム(「システム」としての「幼児」を「異者」としての「子ども」を経て「他者」としての「大人」に変換してリクルート)
(2)人類の社会集団の生成と維持にあっては、自律した「他者」同士の対等な「自他関係」を基礎に、それぞれの他者の自律性と対等な自他関係を維持したまま、社会集団というまとまりを生成して維持するための方法、つまり「自律」と「連帯」を両立させるための方法が解決されるべきもっとも重要な問題となる
この仮説が人類社会の進化史的基盤としてどこまで妥当なのか、検討してゆくことが今後の課題である。

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第7回研究会での発表内容

1.「平衡、自然の調和、システム」(足立薫)

生態系の平衡
 群集生態学はある生態系に、「何がどれくらいある・いる」のかを知ることを目的とし、生物種の数、個体数、生物量がその指標となる。生態系が平衡状態であるならば、資源の供給量はちょうど需要量と釣り合い、種間競合が群集を形作ると考えられる。平衡の生態学はニッチ集合(assembly)モデルで表現され、生態系は競争関係(競争と共存の動的平衡関係)の調整作用の結果としてある。ここでは「いつでもちょっとだけ足りない」資源を、調和的に分け合うことで、全体としての自然が成り立っていると考えられ、ニッチで満たされた世界としての生態系=自然の調和概念が成り立っている。
 それに対して、非平衡を自然の本来の姿と考える場合、生物が利用する資源は常に豊富で余剰分が存在し、人的な攪乱や災害、捕食圧が生物群集を決定づける重要な要因となる。このような生態系の見方を支える理論の一つが、ランダム(null model・ 中立理論)仮説、分散集合モデルである。Hubbel(2001)は Unified Neutral Theory of Biodiversity and Biogeography(UNTB)を構想し、遺伝子の中立説とのアナロジーから生態系の種の構成や個体数は、「偶然に」決まっていると主張した。生態系を決定づけるのは、偶然性や歴史性、ランダムな分散、確率的・局所的な絶滅である。局所群集では競合が起こっていても、生息地間の移動分散でゆるやかに相互作用するメタ群集のレベルでは競合が成立せず、進化や生物多様性は、メタ群集のレベルで考えるテーマとなる。
 平衡と非平衡の概念は相補的であり、両者を統合しようとする試みとして、Tilmanの資源=競争理論があげられる。TilmanによるZNGI(ゼロ・ネット・成長・アイソクライン)理論は、ニッチを自然環境に配置された埋められるべきスロット、穴ではなく、ベクトルとして考えることによって、競合関係のもたらす結果が初期条件によって変わる歴史性のある生態学のモデルを提供する。Eliot(2011)によれば、UNTBの系譜に連なるTilmanの競合理論は、Ceteris paribus(他の条件が等しいならば)という非現実的な限定が必須の理論であり、説明されることの全体性が成立していないタイプの特殊な科学理論であるとされる。

システムの平衡
 河本(1995)によれば、システム理論の歴史は以下のように整理される。
 第1世代システムは、有機体のシステムを構成要素間の「関係」で表し、開放性の動的平衡系として描かれる。動的平衡が維持されホメオスタシスの機構によって自己維持されるため、時間は変数としては無視でき、規則的な関係にしたがってシステムが作動して恒常的な「関係」が構成されるように錯覚することになる。そこでは動的平衡の結果でしかないはずの「関係」が実体化され、様々な現象の根拠となる「関係」を規則構成的に解明することが主要な課題となる。
 第2世代システムは、動的非平衡システムと呼ばれる自己組織化系である。たとえば、結晶をシステムとし、溶液をシステムの境界として、増大しつづける結晶を自己組織システムとしてとらえる場合であり、システムの境界は、システムと環境とのインプットとアウトプットによって決まり、観察者が空間内に判別している境界とおおむね重なっている。
 初期条件を定めて最終結果を演繹するのが、近代科学的な法則設定によるコード化であるが、自己組織化では初期条件を一定にしても、結果が一義的に定まらず、確率的偶然によってしか結果は決まらないため、コード化の限界が示される。動きつづけるシステムを近代科学的手法では、特定の時点を設定し、それに対応した特定の状態が定まるようにコード化する。特定の時間点に対応する状態記述をならべるのは、アニメーションを作るようなもので、観察者には動きつづけているようにみえるが、システム自体が動きつづけていることを示さない。第1世代の考え方では、システムの境界は、観察者の視点から導入されているが、第2世代の視点をとると、システムそのものにとっての境界を指定するようにシステムの規定を導入することができる。ただし結晶化のシステムでは、ビーカーの壁が外的条件としてシステムを支えている。第3世代のオートポイエーシス・システムではシステムの境界は、環境との相互作用によって決まるのではなく、むしろ自分で産出した壁によって区切られシステムが自らの境界を自分で産出するようになる。
 非平衡の生態学は、「法則」で説明できる「局所」に対して、捉えきることができない「全体」を措定し、必ず起こる例外や逸脱を重要な要素とする。決して届かないがいつでもそこにあるという意味での全体性は、ごくごくまれな機会を通じて「他者」として生き物の前にその姿を垣間見せる。そこそこの局所的全体性の中でそこそこうまくやっている生き物に見通せる範囲には、決して全貌を現さない真の全体性こそが、言語や意識によらない生き物本来がもつ「他者」の在りようなのではないだろうか。

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2.「非人間の<もの>が他者となるとき:真珠貝、機械のアニミズム、野性のチューリング・テスト」(床呂郁哉)

 本報告では非人間の存在者をめぐる他者の問題を扱った。まず本報告の問題意識に関して述べる。これまでの人文諸科学系の分野における他者論においては、「他者」の外延として(例外はあるが)ともすると人間(同種他個体)が想定されがちな傾向があったと言える。しかしながら、本研究会におけるマクロな進化史を含むより根源的・原理的な観点からすれば、各種の<非人間>の存在者が他者となりうる側面をより積極的に考察の対象に入れるべきであろう。ここで言う<非人間>とは人間(ヒト)以外の動物や「もの」(自然物、人工物を含む)などを指す(以下、「動物」「もの」などという場合、便宜上ヒトを除くこととする)。本報告の第二の問題意識としては、(床呂郁哉・河合香吏(編)2011『ものの人類学』(京都大学学術出版会)において既に示唆的に論じた点でもあるが)人間/非人間の境界の可塑性・可変性という論点がある。この点には具体的には人間と<もの>の境界のゆらぎ、エージェンシーを発揮する<もの>などを含む。総じて本報告では、非人間の「もの」(動物、自然物、人工物など)を含んだ他者論はいかに構想可能かという問題を扱った。
 次に本報告で扱う「他者」に関して述べたい。他者論において他者の定義を述べる際に、しばしば自己と他者は循環的に規定されることがある。すなわち自己とは他者でないもの、他者とは自己でない存在という規定である。しかし、こうした自己/他者の二項の循環的規定で抜け落ちるのは「環境」という第三項であると考えられる。つまり「非自己(自己でないもの)」のうちには他者と環境の両者が含まれるものとして考えたい。つまり「非自己」ならば自動的に他者というわけではなく、本報告では他者のうち広義の社会的インタラクションや交渉が可能の可能性に対して開かれている対象を「他者」として考えたい。
更に本報告では狭義の他者(これを便宜上、「他者Ⅰ」と呼ぶ)と広義の他者(これを「他者Ⅱ」と呼ぶ)を区別して概念化した。ここで言う「他者Ⅰ」とは、社会的インタラクション・コミュニケーション・交渉・対話可能な対象のうち、比較的、応答・返答可能性が明瞭であるように見え、自己と相手の関係が比較的、対称的・相互的である(ように見える)他者のことである。たとえば人間にとっての(生きている)他人だとか、ある生物個体にとっての同種他個体(とくに生きている同種他個体)などが典型的である。これに対して本報告で言う「他者Ⅱ(広義の他者)」とは、当事者(自己)にとって広義の社会的インタラクションやコミュニケーション、交渉、対話、呼び掛け等の試み(トライアル)が有意味だと想定・推定されうるような対象を指す。 他者Ⅱには自己と相手との関係が(とくに外部の観察者の視点から見て)必ずしも対称的・相互的ではない場合を含むものとして規定した。このように定義することで、たとえば人形や路傍の石、無機物などのように通念的な意味では人間の側からの呼びかけ・働きかけに対する返答・応答可能性が保証されていない対象や、「いまここ」の場には物理的に存在しない「非在の他者」としての死者、神・霊などの対象なども広義の「他者」の外延に含みうることを論じた。
 続いて本報告ではM.モース以来の人類学において「ひと」と「もの」の境界の可変性を論じる系譜が存在してきたことを再確認した。更に近年の生物学・認知科学・人類学等において、知性・心やエージェンシーに関する脱人間中心主義的な議論の展開を紹介した。この文脈において、広義のエージェンシーや社会的な相互作用(交渉・対話)の可能性は、決して人間や一部の「高等な」生物だけの占有物ではないことを指摘し、場合によっては人工物や機械などの存在者でさえも、人間にとって交渉可能な他者として立ち現われることを具体的な例を挙げて論じ、こうした現象一般を「機械のアニミズム」と名付けた。
 また最後に、このような「他者」の外延の可変性、すなわち状況に応じて非人間の存在者(動物、自然物、人工物)を含み込む形で「他者」の外延が拡張しうるという現象をどう考えるかについて、数学者A.チューリングによる「チューリング・テスト」のアイディアを補助線として検討を行った。その結果、人間が未知の対象を含む任意の対象と相互作用のトライアルを通じて、交渉可能な「他者」の外延が再帰的・行為遂行的に決定されてくる過程を「野性のチューリング・テスト」と名付けて概念化しうることを提唱した。

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第8回研究会での発表内容

1.「他者とは誰か —<ある>と<もつ>と<する>」(伊藤詞子)

1.<ある>から<する>へ —泡沫の世界
 本発表では、発表者がこれから考察しようとする、チンパンジー社会における「他者」について、どのような出発点を取り得るかについて模索した。
 その中で、他者には自己次第という側面があること、自己は可変的であること、従って、他者も可変的であることを整理した。こうした可変性や、自己(イメージ)においても他者が現れるような動態を踏まえるならば、「他者とは誰か」と問う出発点は間違いであろう。また、イメージとして現れる自己や他者そのものについて、言語を持たないチンパンジーで、それがどのようなものかを考察するには限界がある。
 一方、生命にとって、その誕生の瞬間を含めた一生のなかで、自/他の区分は常に同時的に生成するという出発点に立つならば、自/他の区分が作動する可能性のある、区分が問題となる場面を検討することで、他者という問題にアプローチできないかと考えた。他者は、この場面において自己のイメージを同時に起動しつつ立ち現れる何ものかであり、そのイメージ自体は、近代の人間にとっては死活問題(特に自己イメージ)となるにしても、ここでは二次的な問題という位置づけになる。
 具体的に扱う場面は、相互行為の過程でそれまでの流れが偶発的、瞬間的に、止まるような場面である。それは、危機的というほど大げさなものではないが、そのまま行為を続行するのも躊躇するような<すきま>である。今回扱った事例では、行為レベルでは相互行為に関わる二者が同時に止まるわけではなく時間差があった。すなわち、一方が途中で行為を止めることで、相手もそれまでやっていた行為を止めてしまうのである。その場に居合わせた第三者が介入することもあった。これらは、当事者にとっても<すきま>は観察され、なにがしかの影響を受けるようなものであることを示す。
 こうした<すきま>が生まれた後、今回取り上げた事例では仕切り直すかのように新たに相互行為が始まった。直接相互行為している相手や、第三者が<すきま>を観察しているということも考慮するならば、相互行為の継続の中で自己の行為を止めることは、行為継続が単に不可能だということだけでなく、同時に相手がそれに気づき、相手の出方が変わることを「待つ」ものとして現れていることのように思われる。もちろん、必ずそうなるわけではなく、気づかれないこともあるだろう。あるいは、瀕死の相手に対して手を変え品を変えて行為をしかける例では、何の反応も返ってこないという形で<すきま>だけが延々と生成するような場合もある。従って、仕切り直しは観察者である私にとって瞬間的に現れる<すきま>を見出す鍵となっているに過ぎない。また、相互行為がそのままに流れているときには<すきま>がないということでもなく、これも観察者にとっての観察可能性を確保する手続きに過ぎない。こうしたさまざまな限定や限界つきではあるが、こうした場面を検討することで自/他の区分が作動する基盤と、そうした区分の諸相を多少なりとも拾い上げられるものと考えている。

2.<もつ>と<する> —仮のものの確からしさ
 チンパンジー社会は離合集散という特質を持つ。その過程に於いては、誰にいつどこでどのように出会うかは予測も制御も不能である。つまり、「出会してしまう」ことが多々起こる。多様な社会交渉で知られるチンパンジーであるが、こうした流動的な状況下で彼らはいつでも自由に相互行為を始めるわけではなく、むしろなかなか何も起こらない、いわば相互行為を開始することの難しさという側面について本プロジェクトの前身である、人類の進化史的基盤研究(2)の成果論集で議論した。
こうした出会いの場面に於いて挨拶という行動が見られることがある。パントグラントと呼ばれる特徴的な音声を、一方的に発する行動である。この行動は、劣位者が行う行動として、優劣関係の指標としてもっぱら利用されてきたが、優劣関係や順位関係との関係そのものについては様々な議論がある。すなわち、多くの霊長類では優劣関係は劣位者の行動抑制が見られるのに対し、チンパンジーでは劣位者の側が行動を起こすことや、単純に優劣関係に収まりきらない現象として現れることから、まだ多くの謎を残す行動なのである。人間がこの行動に優/劣という対立的な関係を想定することには、自己や他者の外部化に関わる問題群と深く関わっているように思われる。ここでは、この行動の離合集散状況下での現れ方から、<すきま>の操作性という問題として捉え直せるのではないかと考えているが詳細は今後の課題である。

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2.「自己の中の他者」(西井凉子)

 本発表では、南タイの村落におけるムスリムの仏教徒としての出家というある種の祖先儀礼の事例から、人間の共同的存在を、あらかじめ定義づけずに、その時、その場でおこっている編成からみていくことを試みた。そのために ①個のレベルと②社会・共同体のレベル、それぞれについての他者論をみることで、両者をどのようにつなぐことができるのかを考察した。
 調査村の特徴は、ムスリムと仏教徒がほぼ半々で混住し、異なる宗教間での通婚率が全婚姻数の20%にのぼることにみられる。異なる宗教が混在する村落に特異な慣行として、仏教徒の祖先が原因とされるムスリムの出家がある。つい20年ほど前までは、ムスリムの子供が病気になると、親や祖父母は誰か仏教徒が子孫に出家をさせたがっていると考えて願かけし、治癒すると出家させていた。たとえ明確に仏教徒の祖先の系譜が辿れない場合でも、こうした願かけは行われており、ムスリムと仏教徒が混住している村では現在の日常的な差異をもった他者を身体に取り込みつきあう術を心得ていたといえよう。それは現前している差異が必ずしも絶対のものではなく、他者が自己になり、自己が他者になりうる遇有性を秘めている関係性が日常の生に潜在していることを示していると考えられる。
 発表においては、自己と他者をめぐる個のレベルでの考察を、『心と他者』(野矢茂樹著)から、「私には到達しえぬ内なる心をもった他者」から、「新たな意味の発信源としての他者」「規範の他者」への道筋をしめした。野矢は、「心」もまた、あるものの性質を述べた言葉ではなく、他との関係の在り方を述べた言葉なのではないだろうかという。つまり、「私の心」そのものが「他者の心」と対になってしか概念化されないのである。
 次に『他者と死者』(内田樹著)から、レヴィナスの主体性とは「同一者‐のうちなる‐他なるもの」のことであるという議論に着目する。まず他者の接近があり、他者の接近にほとんど「遅れて」それに「応答するもの」として主体性は到来する。その時に、〈生きること〉に着目すると、それによって生きている—私と「他なるもの」はその起源において相互に基礎づけあい、相互に支えあっている「絡み合い」としてみえてくる。「私」は「非—私」に「依存」するというあり方においてはじめて「私」なのである。「非—私」を絶えずおのれのうちに繰り込みつづける「とぐろを巻くような内回転の運動性」(enroulement)こそが「私」の本質をなしているという。こられの考察からは、個のレベルでは、自己の成立には他者の存在が不可欠であるといえよう。
 次に、社会・共同体のレベルで人間の共同性と他者をめぐる考察は、まずは『交易する人間』(今村仁司著)から行った。個人の観点では偶然の出会いにみえるものでも、実は偶然ではなくて、制度や慣習がそうさせている。個人的には偶然の経験を必然的にするという。人間以外に、「人間でないもの」、「人間でなくなったもの」、「人間を超えるもの」もまた不可欠な条件として社会関係の形成に根本的に参加している。
 また、『世界の儚さの社会学 シュッツからルーマン』(吉澤夏子著)は、ルーマンにとっての他者とは、どのようにしてもけっして到達しえない絶対の差異としてあり、「私と他者の共存」というパラドクスが隠蔽されるできごとに社会の生成をみる。つまり、社会・共同体のレベルにおいても他者の存在はその成立に不可欠である。
 このように、個のレベルと社会・共同体のレベルの両者において、他者が不可欠であるという論理的相似性をみることができる。しかし、①と②がどのようにつながるのか、①から②への飛躍はどのように説明できるのかについては、さらなる媒介が必要である。それを、ジャン=リュック・ナンシーの共同体論を導入することで試みた。つまり、共同体/社会はそのつどの出現であり、あらかじめ措定できないということを認めることからはじめるのである。
 ジャン=リュック・ナンシーは、「共出現」において、「間に存在させる(割り入らせる)もの、それは必然的に最も共同なものである。だが最も共同なものは、与えられないがゆえに間に存在させるのであるとする。共同体/社会はそのつどの出現であり、あらかじめ措定できない。「例えば、社会編成ならびに政治的争点におけるさまざまな差異や、国家の諸問題、階級闘争、他の次元の諸差異や抗争といったものの間での継起、重複、不均衡は、共同の実態「へと」後から不意に到来する偶発事ではなく、「共同体」それ自体の不意の—到来なのである」とする。
 近年、調査村でのイスラーム主義的な運動が浸透して、ムスリムの出家慣行は行われなくなっている。これまでの、自己の中の他者と折り合う方法が使用できなくなったときに、共同体はどう変化したのかであろうか。共同体そのものの崩壊であるのか、それとも方法を変化させて共同的なるものの志向性は存続しているのか。それとも、そもそも共同体は不変でずっと続いてきたのだろうか。それは、実際に出家することなく、出家の願を断つ儀礼をおこなうことで代替させたり、100歳になったら出家すると誓い、「この子供が将来とも幸福で繁栄するように願います。そしてこの子が100歳になったときに出家します」と唱える新たな方法論が実施されるときに、共同体は出現しているとみることもできよう。そして、そこで出現する共同体は、その儀礼や調停の方法が行われるその都度に形を変えつつ、しかし当事者にとってはずっと続いているものとして出現していると考えることができよう。ここでは他なるものは常に自己の中に在りつつ、また他なるものを含んだ社会において生活を営んでいるのである。

参照文献
  • 今村仁司2000『交易する人間(ホモ・コムニカンス)』講談社選書メチエ.
  • 内田樹2004『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』海鳥社.
  • 大橋完太郎2013「かくも味わい深き他者の顔」『ユリイカ』8月号臨時増刊:83-90.
  • 郡司ペギオ幸夫2013「アンパンマンを食べることのできる者は誰だ—否定と否認の混同または脳内で命令できる他者に基礎づけられた自発性」『ユリイカ』8月号臨時増刊:73-82.
  • 田辺繁治2013『精霊の人類学 北タイにおける共同性のポリティクス』岩波書店.
  • ナンシー、ジャン=リュック2002「共出現—『コミュニズム』の実存から『実存=脱自性』の共同体へ」『共出現』:65-145.
  • 西井凉子2001『死をめぐる実践宗教』世界思想社.
  • 西井凉子2013『情動のエスノグラフィ』京都大学学術出版会.
  • 野矢茂樹1995『心と他者』勁草書房.
  • 吉澤夏子2002『世界の儚さの社会学 シュッツからルーマン』勁草書房.

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第9回研究会での発表内容

1.「チンパンジーにおける他者:チンパンジーはどのようにして互いに出会わないのか?」(西江仁徳)

 「他者」について考えるにあたって,まず「自―異」と「自―他」を区別する。「異」なるものとは,システム(自己)にとっての環境である。その環境内に「他」なるものが現れることによって,「自己」のあり方も変わってくる。「他」なるものとは,環境内に現れる「あるまとまりをもった(捉えきれない)全体」(足立発表@他者研)であり,その「まとまり方」にこそ生物の「自己―他者」の関係づけの(進化的)特徴が現れる,と考えたい。このとき「他者」の現れは,同種他個体との関係や生物個体間の関係に限定されることなく,さまざまな「他者」の現れに応じた「自己」のあり方がありうることになる。たとえばこの「自己―他者」は,「自集団―他集団」という枠組みにおいては「集団」の問題となり,また「いつもの自分たちのやり方―いつもとは違う他のやり方」という枠組みにおいては「制度」(あるいは「慣習」)の問題とも接続している。
 こうした見通しのもとに,本発表では野生チンパンジー集団におけるアルファオス失踪の事例について(再度)検討したい。この事例の詳細については一部をすでに制度本に執筆したが,とくに失踪した元アルファオスが単独で暮らしていた期間の事例について,十分に検討できていない部分が残っている。単独生活中の元アルファオスにとって(たまに出会う/ほとんど出会わない)他個体とのやりとりはどのようなものだったのか,また集団の多くの個体にとって(たまに出会う/ほとんど出会わない)「元アルファオス」のふるまいはどのようなものとして現れていたのか,観察事例の記述を通して検討する。そのうえで,チンパンジーにおける他者の現れが,ヒトにおける他者の現れとどのような部分で異なっているのかについて考察した。

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2.「学習と他者:教えの制度化と他者の誕生」(寺嶋秀明)

 ヒトの社会進化における大きな特徴として「教える」という行動がある。ヒトにもっとも近縁であるチンパンジーでは他者の行動から学ぶ社会学習は見られるが,「教える」行為はほとんど見られない。今回の発表では,そのようなヒト特有の「教える─教わる」という行動とヒト社会における「他者」の誕生とが密接な関係をもっている点を論ずる。また,チンパンジーなど大型類人猿と比較した場合,ヒトの大きな特徴としては個人間ならびに集団間の社会性の強さを指摘できるが,社会性の進化と他者の誕生との間には強い関連がある。自己にとってさまざまな意味をもった自立的存在である他者と共生する社会の構築がヒトの社会の大幅な進化をもたらした可能性を論ずる。「他者」を論ずるにあたってそれをきちんと定義づける必要があるが,ここでは哲学的な思考領域には踏み込まず,一定の集団(家族から民族までを含む)に属する私とあなた,彼,彼らといった個体のレベルでシンプルに考え,他者とは自己とは異なる自立した個体で,自己にさまざまな形の影響力をもって関わってくる者としておきたい。そうした他者は,私の外から私に呼びかけ,否応なしに私の内的世界に入ってくる者でもある。
 他者はさまざまな属性を複合的に備え存在として自己に関わってくるが,そのような他者の大きな役割の一つが「教える」という行動である。「教える─教わる」という関係の出現は,他の霊長類には見られない大きな特徴であるが,そのような関係は,上記のように自己に関わる他者を抜きにしては考えられない。学習は単独でも可能であるが,teaching は明らかに教える者と教わる者との相互行為であり,教わる者にとって教える者は他者にほかならない。教える者と教わる者との関係は二つに分けられる。一つは,両者がそれぞれ明示的にそのような相互認識をもっている場合,たとえば学校における教師と生徒,明言された師と弟子,教祖と信徒などである。もう一つは,遊び仲間や徒弟制度的職場(レイヴ&ウェンガー 1993)における非明示的な「教える─教わる」関係である。教える者と教わる者の関係を支えているのは学びと教えに関する信頼であり,そのもとで義務論的な行動原理(Searl 1995) に則って文化的に制度化された teaching が展開される。
 teaching には学びの場の性質が大きな影響をもつ。すなわち,ヒエラルキー的に構成されている学びの場においては,科学あるいは宗教などの権威に裏打ちされた明確な輪郭をもつ知識が教え込まれる。これは「きちんとした知 definite knowledge」を「きちんとした教え teaching by instruction model」によって教え込む教育であり(渡部 2010),伝達効率は高い。近代化以降の学校,軍隊,会社などで採用されてきた教育法で,主導権は教え手にある。一方エガリタリアン的に構成されている学びの場においては,教えは直時的というよりも示唆的におこなわれ,伝達される知識は「よいかげんな知 fuzzy knowledge」(渡部 2010)のようにソフトフォーカスであり,学習者の選択によって広い学びがおこなわれる。 学習の主体は学び手であり,伝達効率は低いが,教えた以上に伝わる学びとなる。「しみ込み型の教育 learning by osmosis model」である(東 1994)。
 しみ込み型の教育でもっとも重要なのは学びの環境である。他からの強制による教師ではなく,学習者が主体的に「師」とみなすモデルのみが存在し,そのモデルから学習者が必要な知識や技能を自立的に学んでいく。モデルはあからさまな教示を避け,非意図的に「他者」として学習者の自己に働きかけ,学習者の変容を促す。モデルは必ずしも人間である必要はない。動物,植物,無生物,自然全体などさまざまなものがモデルとなりうる。学ぶ者はそのようにモデルあるいは環境との相互行為の中からさまざまなアフォーダンスを受け取り,自立的に知識や技能を獲得していく。
 他の霊長類,とくにもっとも近縁のチンパンジーとホモ・サピエンスとの大きな相違は,個体間,そして集団間の関係におけるその社会性の発達の違いにある。チンパンジー社会では,群れは母子関係を除けば,親密で持続的な関係はほとんどない。群れを超えた絆は皆無であり,群れ間は常に敵対的関係にある。一方ヒトでは,家族,バンド,近隣集団における親密な絆がある。さらにはるか遠く離れた人々でも「繋がっている」と感じられるかぎり,今この場の人々と時空を超えた人々の間にはつよい絆が存在する。
 そのような連帯や絆の生成と維持を担っているのが,シェアリング,もてなし,贈与,交換,交感,コミュニケーションといった相互行為であり,他者との関わりである。ヒトはこれらの行為を基盤として他者と共感と共存によって結ばれた社会を成立させた。それは同時に,他者を自己のうちに取り込む文脈の誕生を必然のものとした。すなわち,自己とは異なる他者はつねに自己に新しい経験をもたらす者,すなわち教える者として顕然しているのである。
 ところで自己と他者との関係にはその密度や方向性においてさまざまな状態があり,それぞれ特有の存在様式とベクトルをもつ。その詳細については今後さらに検討を必要とする課題であるが,ここでは3つのタイプを想定することができる点だけを指摘しておきたい。まず「対面型」であるが,これは自己と他者が見つめ合っている状態であり,他者は強く自己に問いかけ,両者の間には高い緊張が生まれる。親密度も高まるが,そのような緊張関係を持続させるのは困難である。次に「並行型」がある。これは自己と他者が同一の方向を見ながら両者の関係を保つような関係である。両者の緊張感は調整され,むしろ共通の方向性をもつことで共同性が拡大する。最後に「無方向型」をあげておく。他者性がきわめて希薄化した他者どうしが共存し,互いにかってな方向を向いている状況である。アノニマスな関係であり親密な相互行為には乏しい。一方そのような希薄な他者関係とは別に,より親密な自他関係をもつ集団も出現し,そこでは対面型,並行型の自他関係が展開する。フェイス・トゥ・フェイスから外れた大きな社会の成立によって生ずる状況であり,現代社会もその一つと考えれば良い。

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第10回研究会での発表内容

1.「社会関係の中の他者–私以外のすべての人は他者である」(船曳建夫)

(0)これまでの議論
 先の二つの論文、「人間集団のゼロ水準」(以下、第1論文とする)と「制度の基本構成要素」(以下、第2論文とする)で、われわれは次のことを推論した。
 第1論文では、「人間は、出会い、対面する他の人間と相互に了解の関係を取ることが可能である」とし、「その関係の可能性を保っている、無限の位置の広がりを『場』と呼ぼう。・・・場は、人間の相互了解の行為によって場面として切り取られる」とした。その時に、場面の上に乗っている人間だけではなく、向こう側の人間とも同時に了解の関係をとり、かつ、それが持続するためには、抽象的な意味で「高さ」構造が必要であるだろう、と論を進めた。
 第2論文では、その高さがどのようにして作られるかを、「制度」の問題として考えた。われわれは、ABという二者間関係から出発して、それが対面的な二者間関係から、第三者が現れて、三者以上の関係 になるとき、原理的にその複数の当事者にとって、相互の了解は、手に負えないほど困難になるはずだと推論した。われわれが得た結論は、三者間関係の第三者とは、二者間関係を保証する第三項として働いている、というものだった。そして、その第3項が記号的な象徴となるとき初めて、われわれの社会制度が成立する、と論じた。
 さて、この二つの論文に続くものとして、「他者」を考えるとき、議論の流れは、第2論文の中で示唆した次の推論を考察することにつながる ― 「・・・二者間関係を取り結びうる、換言すれば第2者となり得る存在、なのである。それをこそ「他者」と呼ぶのではないか」。

(1)困難ではなく、苦悩としての他者
 近代に始まった他者についての難問というのは、「周りにいる人のことが分からなくて不安だ」、ということから出発しているようだ。これは、近代になって、ヨーロッパで身分制のたがが外れたり、宗教の重しが軽くなったり、たとえばその前にアジアでは中国の宋の時代、商活動と移動の自由が保証されるようになり、地球上のある限定された地域で、人は、対面的ななじみのある社会関係から、第2論文でいう、αを第三項として共有する、多くの知らない他人と関わり合う場面が日常的になった。すると、他者との関係の取り方の難しさは、社会的な困難だけではなく、個々人内面の、苦悩となる。苦悩としての他者が出現する。
 この研究会で、「他者」という課題を立てるときには、「苦悩としての他者」という魅惑に取りこまれることなく、だからといって、それを無視するのでもなく、それを見据えつつ、人類の社会的な水準において、社会的な他者がどのような意味を持っているかを探る、という立場で、「・・・二者間関係を取り結びうる、換言すれば第2者となり得る存在」それが他者だ、という議論を進めようと思う。

(2)ムボトゥゴトゥの儀礼における、二者間関係と第三項αの不在の克服
 ムボトゥゴトゥの儀礼には、ニマンギ儀礼とナラワン儀礼の2カテゴリーがある。いずれも、階層性のシステムを持ち、各階層にそれぞれの儀礼表現とその表現を使用する権利とがある。その中で、ナラワン儀礼はいわゆる秘密結社であり、「秘儀」を知るものが死に絶えたとき、また、秘儀を知るものが伝承を拒否したときには消滅する。儀礼を司どる上位者(第2論文で言うと、もの化した第三者としての第3項、α)が儀礼の定義上「いない」時には、儀礼の権利譲渡の二者間関係が成立しないのだ。
 しかし、ニマンギ儀礼は公開で行われ、それぞれの階層のメンバーにはその階層の舞踊や偶像製作の特権が認められているが、その「技法」は、儀礼が公開的であるがゆえに、誰もが知っている。そのとき、ある個人Aがある階層Pの儀礼を行いたい、と考えたときその階層Pのメンバーがいないときはナラワン同様その儀礼は消滅するのか。そうではない。儀礼を司どる上位者(第2論文で言うと、もの化した第三者としての第3項、α)が儀礼の定義上「いない」時にも、Aはある個人Bにその権利にふさわしい贈り物を公開の場ですればよい。そして、ある個人Cが、特定の個人と言うよりは、システムのある役割として、擬似的な上位者、第2論文におけるαの位置に立ち、その儀礼を執り行えばよい。その時、いかなる個人も男子でイニシエーションを終えていれば、「B」として二者間関係に入ることが出来。また、いかなる個人も、象徴的な記号としての儀礼を執行する者、αになることが出来る。

(3)「手紙」という二者間関係
 議論の対象に手紙を取り上げるのは、これが、二者間関係に特有のものだからだ。しかし、手紙が手紙としてそのままのものであったら、手紙は書かれて受け手に読まれて、社会的なものとはならない。ここで挙げる新約聖書、夏目漱石の小説、『心』の中の「先生の書簡」も、パウロの『書簡』も、本発表者の私によって読まれてしまって、書き手と読み手の二者間関係の外に出てしまっているから、手紙ではなくなってしまっている。しかし、手紙は手紙でなくなって初めて、社会的には手紙(ここからはそれをとりあえず、テガミと書いて、区別する)となるのだ。
 漱石の『心』の先生の遺書は、手紙小説という手法を取ったことで、フィクションの内と外で、手紙とテガミの二重性を獲得した。外では私に読まれたテガミだが、小説の中の先生の遺書は、第三者に読まれるものとしては書かれていない。手紙文学は、テガミを盗み読ませることで、第三者でしかない読者を、「あなた」にしてくれる装置として働く。すなわち、読者を「あなた」という第二者に、書き手との間の二者間関係に引き込むことにある。
 パウロの『書簡』も最初から多くの「あなた」に読ませるテガミであったと言える。そのテガミの中で、パウロは、たとえば、「兄弟たちよ、私たちは主イエスにあってあなたがたに願い、そして勧める」と書く。この手紙は、自分(たち)はあくまでもキリストの「下(もと)」にあって、あなた(がた)との二者間関係を持ち、そのことで、あなたがたは、私(たち)と同一の第一者(神のしもべとしての兄弟)になり得るのだ、との勧誘だ。もちろんすでに述べた二者間関係の構造から言えば、主イエスと、私(たち)と、あなた(がた)との三角形を成し、それは、私(たち)とあなた(がた)が共に兄弟となって、αに対して、二者間関係を持つこととなる。『心』のテガミが、読者を第二者の気分にさせ、フィクションの当事者に引き入れるように、パウロの『書簡』は、読者を相手を含む第1人称複数の「私たち」に引き込むのだ。

(4)yumiとmifala
 ここで、本論文の問い「 「・・・二者間関係を取り結びうる、換言すれば第2者となり得る存在、なのである。それをこそ「他者」と呼ぶのではないか」に戻ってみる。
 それは最後のパウロの『書簡』に見られる、「あなた」を「私」と同じ1人称、「私たち」と見なすとらえ方についてである。1人称には、包括的1人称と排他的1人称がある。日本語の上代語には、アとワがあり、それぞれ、排他的1人称と包括的1人称を指す、かも知れない、という説がある。ムボトゥゴトゥ語にもそれがある。しかし、もっと広く、pidgin Englishには、印象的なmifalaとyumiという1人称複数がある。前者は排他的、後者は包括的1人称である。排他的1人称という二者間関係は、『心』の手紙がテガミになることに見られる。包括的1人称という二者間関係は、パウロの書簡に見られる。

(5)結論
 十分に論議は尽くされていないが、ムボトゥゴトゥの儀礼と、手紙の例、排他的、包括的な1人称複数の例が、導こうとしているのは、次のような結論である。人間の関係は常に二者間関係である。社会的関係は二者間関係の重なりである。第三者は、そのままでは、二者間関係にあるA、Bと直接に社会的関係を持ち得ない。二者間関係にあるA、Bのαを共有することで、二者間関係のAとBと、それぞれに二者間関係に入ることで、A、Bとの社会関係に入る。

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2.「チンパンジーにおける「他者」:不意に到来するよそ者の声、新入りメスと在住個体のふるまい方の違い」(花村俊吉)

(1)はじめに
 「他者」は、「自己」にとって不意に到来する、捉えようとしても捉え切れない存在であるが、その「自己」も、「他者」から働きかけられ、「他者」に働きかけることで、生まれ、変化してゆく。その一方で、「自己」は「他者」を、それまでの相互行為の有無や結果、その「他者」に対する「第三者」のふるまい方、あるいは(言語表象を持つ人間の場合は)何らかの範疇を参照して、一定の存在として捉えることがある。そして、複数の個体たちが、普段付き合いがなかったり、皆とは異なるふるまいを示したりする「他者」(たち)を、同じように「よそ者」として捉え、そのことを互いに理解したとき、彼らはその「よそ者」との差異において「仲間」として立ち現れることになる。こうして集合的に成立する「自己(仲間)」と「他者(よそ者)」も、その差異が感知されたときに同時に立ち現れるものである。その境界は、複数の個体たちの間で一枚岩的なものでもなければ、あらかじめ共有されているわけでもなく、相互行為を通じてそのつど変化していく可能性があるが、結果的に、繰り返し同じように区切られることもある。
 野生チンパンジーは、そのつど顔ぶれの異なる一時的なパーティ(視覚的に接触しうる範囲にいる個体たちの集まり)を形成しつつ、出会いと別れを繰り返す数十頭から百頭ほどの個体たちが持続的な集団を構成する。別れた個体どうしが数分後に再会することもあれば、そのまま数週間出会わないこともある。そうして離合集散しながら集団生活を送るチンパンジーたちは、多様な場面で、半径1〜2kmの範囲に届く長距離音声・パントフートを発声する。パントフートは、あるパーティの個体たちの間ではしばしばコーラスになり、異なるパーティ間でそうしたコーラスが鳴き交わされることもある。本研究会の前身である『制度』では、マハレM集団(タンザニア)のチンパンジーたちの、非対面下でおこなわれるパントフートを介した相互行為の動態と、それを実現するプロセス志向的な行為接続の慣習について考察した。
 しかし、ときに他集団個体と思しきパントフートが聴こえてくることがある。本発表では、そのような場面を取り上げ、野生チンパンジーにおける「よそ者」およびそれに対応する「仲間」の現れ方や「よそ者」への対処の仕方、そのときその場にいる個体どうしのふるまいのズレや一致について検討し、上述のような『他者』(と「自己」)の在り様にアプローチする糸口を探った。
 なお、調査時期によって大きな違いはあるものの、マハレを含めたいくつかの調査地で、集団を異にするチンパンジーたちの間に、稀に身体接触を伴う敵対的交渉が生じ、その結果、死んでしまう個体もいることが確認ないし推測されている。そのため、これまで集団間の敵対性が強調されてきた。しかし、どの集団のチンパンジーたちも離合集散しているため、ある場面で接触するのは各集団の一部個体どうしであり、集団を異にする個体どうしの個々の相互行為を、そのまま「集団」と「集団」の関係として一括りにできるわけではない。他集団個体との接触時に、彼らが自分たちを「ある集団に属する個体」として、相手を「自集団とは異なる(しかし自分たちと同じような)集団に属する個体」として認識しているかどうかもわからない。また、近年、多くの調査地で、集団を異にする個体どうしの接触の大半は聴覚的なものであるということが確認されてきている。マハレM集団では、その遊動域(普段彼らが利用している場所:約27km2)の北側と南側にそれぞれ別の集団の遊動域が拡がっていることがわかっているが(東側は山塊でアクセスが困難なため不明な点が多く、西側は湖)、ここ10年ほど、他集団から移入してくるメスを除き、他集団個体との視覚的な接触は報告されていない。

(2)「よそ者」の現れ方、「よそ者」への対処の仕方
 M集団のチンパンジーたちは、主食となる果実の実り具合やその分布の仕方に影響を受けて、時期によってその頻度は変化するものの、年間を通じて、遊動域の外縁部から他集団個体と思しき声が聴こえうる北や南の周辺部を遊動することがあった。しかし、チンパンジーの観察中、実際に遊動域の外縁部から声(その多くはパントフートかパントフートを伴う騒ぎ声)が聴こえてきたのは、1年間186日の調査で5日、計16回のみであった。それ以外の、M集団他個体と思しき声は、パントフートかパントフートを伴う騒ぎ声に限っても、平均して1時間に1〜2回聴こえてくるため(ただし1日中聴こえてこないことも1日に84回聴こえてくることもある)、遊動域の外縁部から声が聴こえてくることは稀なできごとだと言うことができる。
 遊動域の外縁部から声が聴こえてきたとき、彼らは、普段それ以外の声を聴いたときには、滅多に、ないしはまったくみられないふるまいを示すことがあった。たとえば、緊張や不安の表れとみなせる下痢便、乳首触り、その場にいる個体どうしの凝集、手伸ばしや抱き合いなどの身体接触がみられたり、その場にいる皆で、新奇なできごとや危険な他種との遭遇時に発されるラーコールを発声したりすることがあった。そのため彼らは、それらの声を、少なくとも、「普段あんなところから声は聴こえてこない」「いつもと違う」というかたちで、よくわからない「よそ者の声」として聴くことがあり、その声に緊張や不安が喚起されることがあると考えられる。そのあとその声が発された辺りで、食痕や糞、ベッドなどの痕跡を発見したときにも個体どうしの凝集や身体接触がみられることがあったため、彼らは痕跡からもそうした「よそ者」の気配を感知することがあると考えられる。
 その一方で、その場にいる皆で吠え返して敵対的に働きかけたり、数十秒後にパントフートをコーラスして相手の応答に耳を澄ませるなど探索的に働きかけたりすることもあり、声や痕跡と遭遇したあとの遊動パターンも様々であった。たとえば、声とは反対の方に向かい、関わりを回避するようにふるまうこともあれば、そのままそれまでの活動を継続して何事もなかったようにふるまうこともあった。また、声の方に向かったりパントフートを発したりといった探索的なふるまいが、さらなる声や痕跡との遭遇をもたらし、それがまた探索的なふるまいを産み出すという、「声や痕跡との遭遇」と「探索的なふるまい」とが互いに他をもたらす循環的な過程が生じることがあり、その過程で次第に「よそ者」が具現化し、最終的にはその「よそ者」との激しい声の応酬に至ることもあった。
 そして彼らは、そのときその場にいる個体たちと、身を寄せ合ったり、ともに移動したり声を発したり、場合によっては、その日それまで断続的に鳴き交わしつつゆるやかにまとまって遊動をともにしてきた、そのときその付近にいる他のパーティと鳴き交わしを試みたり合流したりしていた。こうして遊動域の外縁部から聴こえてきた声を、同じように「よそ者の声」として聴き、ともに対処することになった複数の個体たちは、その「よそ者」との差異において「仲間」として立ち現れていたと考えられる。したがってチンパンジーは、不意に到来する「よそ者」の声に、緊張や不安を喚起されつつも、そのときその場やその付近にいる「仲間」とともに、プロセス志向的な態度で状況に応じて様々なかたちで対処していたと言うことができる。

(3)移入してきたメスのふるまい方の変化、「仲間」の拡がり
 遊動域の外縁部から聴こえてきた声に対するふるまい方には、個体差や性差、年齢差があったため、「よそ者」の捉え方は、M集団の個体たちの間で一枚岩的なものでもなければ、あらかじめ共有されているわけでもないだろう。しかし、「よそ者」への対処の仕方は個体によって違ったり、同じ個体でも状況によって違ったりするものの、少なくない個体たち(ワカモノ以上)が、それぞれ別の場面で、遊動域の外縁部から聴こえてきた声を、「よそ者の声」としてある程度同じように聴いていた(普段それ以外の声を聴いたときとは異なるふるまいを示していた)。そのため、どこから聴こえてきた声を「よそ者の声」として聴くかという、場所(遊動域)とリンクした「よそ者」の捉え方は、彼らの間である程度分有されているように思える。日々離合集散しながら生活するなかで、頻度は少なくとも、そのつど様々な個体たちとともに遊動域の外縁部から声を聴き、互いのふるまいを観察したり互いのふるまいに同調したりすることを繰り返すことで、多くの個体がそれらの声を同じように「よそ者の声」として聴くようになるのかもしれない。
 たとえば、事例数が少なく断定はできないが、他集団から移入してきて数年内の「新入りメス」たちは、遊動域の外縁部から声が聴こえてきたとき、緊張や不安も示さず、そのときその場にいた、集団に長年滞在してきた「在住個体」たちとは明らかに異なるふるまいを示すことがあった。そのため新入りメスたちは、その声を、在住個体たちと同じようには聴いていない可能性がある。しかし、そのようなメスたちも、いずれは他の在住個体たちと同じように「よそ者の声」を聴くようになるということが、少なくとも2頭の長期的なふるまいの変化から示唆された。新入りメスが、声を聴いて普段とは異なるふるまいを示す住個体たちの様子をじっと見たり、突然方向転換した在住個体たちの様子に混乱しつつもそのあとを追い、在住個体たちとその「よそ者」との相互行為に巻き込まれたりすることがあったため、そうしたできごとを繰り返し経験することで、新入りメスもその声を「よそ者の声」として聴くようになるのではないだろうか。だとすれば、「自己」(新入りメス)は「他者」を、その「他者」に対する「第三者」(在住個体)のふるまい方を参照して、一定の存在(「よそ者」)として捉えるようになることがあると言えるだろう。
 また、(2)節で考察したように、個々の場面で「よそ者」にともに対処する「仲間」として具体的に立ち現れるのは、そのときその場やその付近にいて同じようにふるまうことになった個体たちだと考えられる。しかし、頻度は少なくとも、そのつど様々な個体たちと同じように「よそ者の声」を聴くということが繰り返されているならば、そのたびにその様々な個体たちが「仲間」として立ち現れているはずである。その経験を通じて、「よそ者の声」を聴いたとき、そのときその場やその付近にいない個体たちも含めた、集団を構成する全個体に近似するような、「普段付き合いのある知り合いたち」が漠然と「仲間」として感知されることもあるのではないだろうか。それゆえ突然遊動域の外縁部から声が聴こえてきたとき、その声を、単に「普段あんなところから声は聴こえてこない」というだけでなく、そうした「知り合い=仲間」ではない「よそ者」の声として聴くことが可能になっているのかもしれない。ただし、「よそ者」との相互行為が生じ、その過程で「よそ者」が具現化していくような場合には、それに応じて、そうした漠然とした「知り合い」ではなく、そのときその場やその付近にいる個体たちが「仲間」として強く感知されることになるだろう。

(4)今後の課題
 以上の考察、とくに後半(3)節の内容は仮説に過ぎず、さらなる検討が必要である。また、個体レベルの「自己」と「他者」の在り様と、集合的な「自己(仲間、われわれ)」と「他者(よそ者、かれら)」の在り様との関係についても整理が必要である。さらに、人類社会の進化という観点から「他者」を論じるためには、言語表象の有無も含めて、人間とチンパンジーの、「他者」(とそれに対応する「自己」)の現れ方や「他者」への対処の仕方を比較考察することが欠かせないだろう。そのため本発表では、最後に、とくに東アフリカ牧畜民の集団間関係に関する先行研究との比較を試みたが、この点も今後の課題としたい。

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第11回研究会での発表内容

1.「ブレインストーミング」(全員/司会:河合香吏)

以下の項目について、報告、および全員で議論をおこなった。
(1)報告事項
1-1. 進化人類学分科会シンポジウム
「人類の社会性とその進化:共在様態の構造と非構造」
  • 日時:2014年11月3日(月・祝)、午前中(2時間)10:30-12:30?
  • 場所:アクトシティ浜松(東海道新幹線浜松駅に隣接)
  • パネリスト:足立薫(京都産業大)、曽我亨(弘前大)、内堀基光(放送大)
  • コメンテーター:坪川桂子(京都大)、真島一郎(AA研)、諏訪元(東京大)
  • オーガナイザー&司会:河合香吏(AA研)
1-2. 『制度:人類の社会の進化』の公開合評会→公開シンポジウムに格上げ。
  • 日時:2014年12月6日(土)、午後1時〜5時頃
  • 場所:AA研棟3階301号室
  • 主催:AA研基幹研究・人類学班「人類学におけるミクローマクロ系の連関」
  • 司会および対象書籍の概略説明:河合香吏
  • 所外コメンテーター:野村雅一、山極寿一、名和克郎
  • 所外ディスカッサント:足立*、黒田*、北村*、内堀*、春日、船曳、ほか
  • 所内ディスカッサント(基幹人類学班員):西井、床呂
1-3. 科研費の申請:成果公開・学術図書
『制度』の英語版刊行。
  • 再度申請する予定。
(2)審議事項(計画中の成果公開案)
2-1. 人類社会の進化史的基盤研究(3)の成果論集
書名:『他者:人類社会の進化(仮)』
  • 2015年度内に出版(2016年3月末刊行)
  • AA研の出版経費に応募(2015年7月ないし10月末〆切)
2-2. 『フィールドプラス』No.15の巻頭特集(2015年9月末〆切)
  • 「集団」「制度」「他者」にわたる内容にする(あるいは最低ひとつでも可?)。
  • タイトル案
    • 「ともに生きることの進化論:霊長類学と人類学からのアプローチ」
    • 「『社会』のなりたち:霊長類学と人類学からのアプローチ」
    • 「社会性の進化論:霊長類学と人類学からのアプローチ」
    • 「ヒトの社会性はどこから来たのか:霊長類学と人類学からのアプローチ」
  • 執筆者案:河合香吏(巻頭言)、伊藤詞子、寺嶋秀明、杉山祐子、大村敬一
2-3. 来年度の霊長類学会・自由集会(2015年7月)
  • 持ち時間:2時間30分
  • オーガナイザー、司会および趣旨説明:河合
  • タイトル:未定
    • ex.アイデンティティ、「移籍」再考、ヒト屋とサル屋の共同研究とは? etc.
  • 発言者案:中村、西井、北村(→曽我/河合/梅崎…?)
  • コメンテーター案:スプレイグ、竹川、藪田?
2-4. 公開シンポジウム:AA研基幹研究人類学班 or 進化人類学分科会
「人類社会の進化史的基盤を考える:霊長類学と人類学からのアプローチ」
  • 目的:10年間の共同研究の総括。集団/制度/他者を貫く議論を展開し、人類社会の進化についての新たな理論的視座を提出する。
  • 日程:未定(2015年6月頃 or 11月頃 or 2016年2-3月頃)
  • 時間:午後1〜6時(5時間程度)
  • オーガナイザー、司会および趣旨説明:河合
  • パネリスト候補:竹ノ下、早木、杉山、寺嶋、床呂、船曳
  • コメンテーター候補:中川、梅崎、春日?
(3)新規共同研究課題申請に向けて
  • 「人類社会の進化史的基盤研究(4)」として、継続的に申請する。
  • 大きく分けて4つのテーマを検討。すべてを含むような主題を模索・議論。
    1. 環境 Umwelt
    2. 正義 Justice
    3. 同調 Following / Sympathy
    4. 生涯 Life-history
(4)その他
  • AA研50周年記念講演・シンポジウム(2014.10.24)について
  • ジャーナルへの投稿募集

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2.「ヒトにおける協同育児の進化と他者の出現」(竹ノ下祐二)

(1)はじめに
 われわれヒトは協同育児者 (cooperative breeder) であるとされる (cooperative breeding は一般的には"協同繁殖"と訳されるが、哺乳類においては育児における協同を指すので、以下、本発表では協同育児と記す)。協同育児とは、親以外の個体、とくに、もっか育児中でない個体が子どもの世話に加わる育児システムのことである。一方、ヒトにもっとも近縁である現生大型類人猿は協同育児者ではない。人類の系統のみで協同育児が進化した要因については、生態学的、生活史的、認知的背景からさまざまな説明がなされている。ただし、先行研究においては、もっぱら育てる側 (caregiver) の視点からの説明に終始している。つまり、実子を他個体に委ねる母親と実子でない子どもの世話をする個体にとっての協同育児の利益、利益をもたらす環境条件、それを可能にする認知的条件について論じられている。しかし、協同育児が成立するには、子どもすなわち育てられる側 (care receiver) が母親以外による養育行動を受容する、あるいは要求することが不可欠である。トリヴァースによる古典的な「親子の葛藤」理論が示すように、育児の最適戦略は親子で異なる。協同育児の利益とコスト・リスクもまた母子間で異なるはずだ。よって、協同育児の進化をあきらかにするには、子どもの視点にたった研究が必要である。そうした問題意識のもと、私は現在動物園の飼育ゴリラとヒトの乳幼児を対象に、子どもが親以外の個体とどのようにかかわるかの比較研究にとりくんでいる。本発表では、ヒトにおける協同育児の進化を探求することを通じて「他者」の進化史的基盤を論じる糸口を探りたい。

(2)協同育児から「他者」を考える3つの糸口
2.1 分業としての協同育児
2.1.1 分業が「自己の内なる他者」をつくる
 チンパンジーやゴリラなど大型類人猿は、他個体の意思や感情を推測し、それに応じた行動をとることができる。それは、心の理論や共感力を通して、他個体の身になって考えることができるからである。他個体の身になるとは、他個体を"自己"のようなものとみなすことである。相手が敵か味方かはさておき、「自己と同じようなものとして捉えられた他個体」は"他者"の萌芽といってよい。
 だが、それが真の他者となるには、自分を"他者"のようなものとみなすことが不可欠である。他者の内に自己を見いだし、同時に自己の内に他者を見い出すことによって、自己と他者が対になって出現するのである。
 そして、この「自己の内に他者を見い出す」ことが、大型類人猿にはみられない、ヒト特有の心性と考えられる。ヒトは、自分を客観的に眺め、過去や未来の自分を、「いま・ここ」にいる自分とは隔りのある存在として他個体と同等に扱うことや、現在の自分に定位して「当時の自分」の身になる、メンタルタイムトラベルを行なうことが知られているが、大型類人猿にとって自己は唯一無二の自己でしかないようだ。
 ヒトにおいて「自己の内なる他者」はいかにして出現したのか。それは、分業の進化と深いかかわりがあると考えられる。 協力行動や食物分配は大型類人猿にもみられる。だが、それらはあくまで「いま・ここ」における協力であり、その場にある食物の分配である。それに対して、ヒト社会における協力行動には手分けしてほうぼうで仕事をする(「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」)というものがあり、食物等の資源を持ち寄って分配する。食物の持ち寄りは大型類人猿にはみられない。
 手分けして働き、その成果を持ち寄って再分配するという高度な分業システムにおいては、自分の「すべきこと」が自分の生理的欲求から乖離する。この乖離が、自己を欲求する存在と分業する存在に二分化し、互いを「内なる他者」として認識するのではないだろうか。

2.1.2 分業社会における教育
 Caro & Hauser (1992) は「教育」を動物行動学的に定義し、その進化の条件を論じた。それによると、教育行動が進化しやすいのは、生存に必要な技術を観察によって学ぶ機会が少なく、かつ、それを試行錯誤によって習得するのが非効率であったり高リスクな場合である。具体的には、単独で危険な動物の狩りをする食肉類が典型例としてあげられている。
 霊長類の多くは集団で暮らし、食性は植物食を中心とした雑食性である。したがって、何が食物であるかを観察によって学習する機会は豊富にあるし、サソリなどの危険な動物と異なり、採食にリスクや困難な技術はほとんど存在しない。だから、霊長類では Caro & Hauser 的な意味での教育は進化しにくいはずだ。にもかかわらず、ヒトは際だって教育好きな存在である。それはなぜだろうか。
 Caro & Hauser は、教育を利他行動―短期的には教師の適応度を減らし、生徒の適応度をあげる行動―だとする。しかし、ヒトの分業社会においては他者が生存スキルをあげることは利他的とも利己的ともいえない。なぜなら、他者はその向上した生存スキルを用いて分業に参加するからである。子どもに狩猟技術を教えることは、子どもの生存スキルを高めると同時に、集団全体の生産力の向上につながるからである。すなわち、ヒトにおける教育は、子への利他行動というよりもむしろ、子に分業の一端を担わせるための行動、Trivers (1974) が指摘するところの、「子の操作」として進化したのではなかろうか。だとするならば、協同育児の進化と分業の進化は切っても切れない関係にある。

2.1.3 大型類人猿における育児の協働 (collaboration)
 そもそも、協同育児とは育児における分業であり、生業における分業の一部である。だから協同育児の進化とは分業の進化にほかならない。ゴリラやチンパンジーは協同育児者ではないが、アカンボウに対して母親以外の個体が積極的にかかわり、子どもの発達に貢献しているのは確かである。これを"育児における協働 (collaboration)" と呼びたい。大型類人猿における食物分配は、ヒトにおける分業の進化を考察する材料をあたえるものであるが、ならば大型類人猿における"育児における協働"もまた、ヒトの分業の進化、そして「他者」の出現に重要な示唆をあたえるであろう。育児における協働は、食物分配よりもはるかに高頻度で、日常的に生起する現象でもある。

2.2 子どもの社会的発達プロセスにおける他者のあらわれ  他者の定義はさまざまであるが、他者には身内ではない "よそもの (stranger)" という意味合いもある。通常、"よそもの" は集団の外からあらわれるが、子どもは集団の中に出現する特殊な "よそもの" である。そこで、協同育児や育児における協働の場面におけるアカンボウとアロマザーたちの相互交渉の観察から、 "よそもの" が "みうち" になる過程について洞察を得られるかもしれない。
 名古屋市東山動物園のゴリラのアカンボウ、キヨマサに対して、同居する父親と姉は、生後すぐからきわめて強い関心を示し、アカンボウの関心を引こうとさまざまなちょっかいを出した。しかし、アカンボウを強引に自分にひきよせたり、アカンボウが自分のもとを去ろうとするのを力づくで拘束したりはしなかった。アカンボウが母親から離れ、よちよちと外部を探索しはじめると、父と姉はかれの関心空間の中に自己を提示し、アカンボウがそれに応答することによって社会交渉がはじまっていた。つまり、アカンボウ=応答するもの、他個体=はたらきかけるもの、という相補的関係が成立していた。アカンボウによる関心空間の探索は方向性をもたず、そこに自己を提示する他個体はおそらく他者ではなく環境の一部としてあらわれているに違いない。一方、はたらきかけるものである他個体は、母親のもとを離れ、自分たちの空間に侵入してくるアカンボウ="よそもの" に他者を見いだすがゆえに、「はたらきかけて応答を待つ」というある種の遠慮を示すのであろう。その意味で、生後1年未満のゴリラのアカンボウは集団の成員にとっては一方的な他者である。
 生後1年を過ぎるころになると、アカンボウ自らが明確な意思をもって父や姉に接近するようになる。その際には、自分がされたように、父や姉の近くにいって、さまざまなはたらきかけを行いながら相手の応答を待つのである。生後1年未満の頃に、相手に応答し社会交渉をむすぶなかで、相手の中に他者を見出してきたのだろう。ここで、アカンボウと他個体がともに「はららきかけ、応答するもの」となり、両者の関係が双称的になる。
 おもしろいことに、こうした「はたらきかけて応答を待つ」というある種の遠慮深さは、母子のあいだでは生後1年を過ぎてもまったく見られない。少なくとも母親にとって、アカンボウは "よそもの" ではないようだ。しかし、母親と成熟した娘とのあいだには遠慮が見られる。今後、母親が自分の子に他者を見出すプロセスがみられるはずで、注意して見まもってゆきたい。
 ヒトの母子関係と比較すると、ヒトの母親はもっと早い段階から、アカンボウに対してちょっかいをだす、つまり「はたらきかけて応答を待つ」という、 "よそもの" への態度をとるのではないだろうかか。協同育児が進化したヒト社会においては、母親は育児者のひとりとして相対化され、母子関係の"他者"化が生じているといえるかもしれない。この点については、今後ヒトの育児集団における母子の社会交渉の観察を通じて探求してゆきたい。

2.3 母・子・非母養育者の三者関係における他者のあらわれ
 他者には、当事者でない他人、第三者という意味あいもある。協同育児研究はそこにも示唆を与えてくれるだろう。東山動物園のゴリラによる育児における協働の場面では、母、子、母以外の個体という三者のそれぞれが、三者のうちの誰かと社会交渉を持つ際に、相手だけではなく、第三者のふるまいも注意深くモニタリングし、交渉のありかたを調整している。
 生後1年未満のころ、父や姉がアカンボウと交渉をもつ際には、常に母親の動向を気にしていた。一方の母親も、常にアカンボウと他個体の様子を注意深くモニタリングし、状況に応じてアカンボウへの他個体のアプローチを制限したり、逆にアカンボウを他個体に委ねたりしていた。また、生後1年を過ぎるころになると、アカンボウ自身が、母親以外の個体と関る際に母親が自分をモニタリングしているかに注意を払うようになった。自ら母親のもとを離れてシルバーバックに接近し、母親がついてきていないとわかるやいなや激しく母親に抗議する行動をとることもある。ここからいえるのは、母子関係は二者のあいだでの相互交渉のみによって発達変化するのではなく、非母-子関係がそれに影響を与えているということだ。逆に非母-子関係の発達形成には母親が決定的に重要である。協同育児あるいは育児における協働の場面では、三者のかけひきを頻繁に観察することができ、社会関係における第三者としての他者の様相に迫る材料を得ることができると考えられる。

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第12回研究会での発表内容

1.「三項関係のなかで生まれる他者」(曽我亨)

 本発表では、「他者とはなにか」を問うのではなく、「他者がいかに現れるか」あるいは「他者はいかなるときに感知されるか」を問題にした。理念的な議論をするのではなく、コミュニケーションのなかから他者を捉えようとした。その具体的手順として、われわれがターゲットとしたい「他者」とはどのような他者のことであるかを考え、その「他者」が三角関係の中からどのように現れてくるのかを考えた。
 まずフッサールの間主観性にもとづく他者理解について簡単に概観した。そのうえで、他者に先立って自己が想定されていること、また間主観性をなりたたせるためには、自己と他者がともにおなじ言語世界、あるいは文化に属することが必要であることを指摘した。そのうえで、人類学がこれまで問題にしてきた「他者」すなわち文化や言語世界を跨いで存在する他者を理解するためには、フッサールのいう間主観性では不十分ではないかと主張した。さらにフッサールの間主観性にもとづく他者が文化をまたいで存在するとしたら、それは人間の生理的特質に依拠した「生理的な他者」ではないかと疑義を述べた。
 逆に、レヴィナスが想定する他者は、絶対的に理解できない存在として措定されており、人類学者が捉えようとする、あるいは本研究会が捉えようとする他者とは重なり合わないことを指摘した。そのうえで、われわれが捉えるべき他者の問題として、レナート・ロサルドによる「首狩りへの衝動の理解」に関する逸話を引いて説明した。この有名な逸話を要約すると次のようになる。「ロサルドは、当初、イロンゴットたちが説明する首狩りの説明――すなわち、死別のさいに感じる激しい怒りが、ひとを首狩りに駆り立てる――を理解することができなかった。そこで彼は当初、人類学の交換モデルを用いて『理解』しようとした。けれども、ある時、彼の妻がフィールドで滑落死したのを期に、突如、怒りの感情がわきあがった。そしてイロンゴットの説明を直接、理解することができた。」この逸話に登場するイロンゴットのような他者を、私たちは捉えたいのであり、それは私とは意見や考えを異にする社会的な他者であるとした。
 このロサルドの逸話を、本発表では他者を理解する2つの仕方として取り上げた。すなわち目の前の相手を直接理解するという理解の仕方と、当初、ロサルドがおこなったように理論や状況、歴史など、コミュニケーションの外部を参照することで相手を「理解」する仕方の2つである。
 このような準備を経て、本発表では「他者とはいかなる存在か」という哲学的問いを離れ、「他者がどのように出現するか」を問うべきであると主張した。さらにこの問いに答えるには、「他者になりうる相手(A)」と「わたし(B)」だけの関係を考えるのは不十分で、必ず第三項(X)が必要となると主張した。ここでいう第三項は、モノでもコトでもヒトでも良く、このモノやコトやヒトをめぐって「他者になりうる相手(A)」が何がしらの意見や価値観を表明し、その意見や価値観が「わたし(B)」をまきこみそうになるとき、他者性を感知するのであるのだとした。その具体的なモデルとして、ヘイトスピーチを例にあげた。たとえば、わたし(B)はヘイトスピーチを聞くとき、そのヘイトスピーチをするひと(A)を他者として、すなわち理解しがたい相手として感知することがある(図1)。もちろん、わたし(B)は、国民国家論やナショナリズム論の枠組みを援用することで、この人(A)を理解することはできる。しかし直接的には、理解できないと感じることがあるのである(もちろん逆に親近感を感じる人もいるだろう)。
 こうした形で他者が感知される例として、発表者が東アフリカで調査を行っているふたつの牧畜民、ガブラ・マルベとガブラ・ミゴで収集した事例をとりあげ、他者がどのような状況で出現するのかを詳細に検討した。その具体例を、この要約にはしめさないが、検討の結果、 (1)AによるXに対する価値の表明と、(2)AによるBへの支配、の両者が絡まりあうときに、BにとってAが他者として感知されるのだとした。
 ところで、人類の進化史的基盤を考えた場合、他者(理解しがたい相手)と共存できるという能力は、ヒトの固有の能力と考えることができる。ヒトはこの能力を有することで、他のどの霊長類にもつくれないほど多くの人数からなる社会をつくることに成功した。その能力とは、いかなるものであるかを最後に検討した。ヒトは、目の前の人Aを、他者であると感知したとき、その他者を直接的には理解できないとしても、理論や状況、暮らし方、歴史など、コミュニケーションの外部を参照することで「理解」することができる。こうして、その他者とはつながらないまでも、ともに暮らすことを許容するように進化したのではないだろうか。以上が本発表の結論である。

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2.「他者と異者のダイナミクス:カナダ・イヌイト社会にみる倫理の基盤」(大村敬一)

 この発表では、前回の発表(「子どもの他者化と野生動物の異者化:集団を生成して維持する想像力」2013年度第1回研究会20130428)での議論をエマニュエル・レヴィナスの「他者」論とパラフレーズすることで、人類の社会性と倫理の進化史的基盤を考察し、レヴィナスの「他者」論を人類学が継承する可能性について考察した。
 具体的には、関係が想像される際の視点の違いに着目することによって前回の発表で4つのタイプに類型化した関係のあり方、すなわち、(1)「システム/環境」関係、(2)閉じた自異関係(関係内部に閉じた「自己/異者たち」関係)、(3)自他関係(「自己/他者」関係)、(4)開いた自異関係(関係の外を巻き込んだ「自己/異者たち」関係と「自己たち/異者たち」関係)がレヴィナスの「他者」論の(1)「ある」(il y a)という「非人称的な存在という現象」としての「存在することそのもの」の関係、(2)「自己」が「他なるもの」を「糧」として「享受」する関係、(3)「主体」同士が相互に「他者」からの「責め」(有責性)を引き受け合うことで生じる愛の関係、(4)「正義の秩序」(「法理的公正」の「裁き」)によって「政治的境位」に生じる社会関係に相当することを明らかにし、その類型に基づいてイヌイトの拡大家族集団が生成されて維持されるメカニズムを分析した。そのうえで、想像力を介した社会関係の組織化が人類の社会集団の生成と維持にあたって重要な役割を果たしていることを明らかにするとともに、レヴィナスの「他者」論の問題点を指摘し、その問題点を人類学の民族誌的な研究が克服することで、その「他者」論を継承する可能性を検討した。

関係の類型論
(1)「システム/環境」関係:レヴィナスの云う「存在することそのもの」たちの関係(まだ「自己」も「他なるもの」も「主体」も「他者」も「第三者」もおらず、「ある」(il y a)という「非人称的な存在という現象」としての「存在することそのもの」たちの関係)
 絶え間なく自己生成するシステム(原理的には細胞でも神経組織でも何でもよいが、ここでは生物個体を想定している)が絶え間なく自己生成することで生じ、維持されるシステムとその環境の関係。この関係では、システムの「内(システム)/外(環境)」の区別が生成されるが、その「内/外」の区別が「自己/異者」として意識されて客体化されることはない。つまり、「外(環境)」は「システム/環境」の界面での相互作用を通して知られるだけで、その外延は外に向かって無限に発散し、まとまりをもつ対象として客体化されることはない。また、「システム/環境」関係全体の外側が想像されることも、その外側から「システム/環境」関係の全体を客体化する視点が想像されることもない。そのため、この関係では、システムが自らを自己として意識することも、「システム/環境」関係の二つの項(「システム」と「環境」)が相対化されることも、この二つの項が互換的になることもない。
 この「システム/環境」関係においては、いまだ「自己」も「他なるもの」も「主体」も「他者」も「第三者」も存在しない。この関係は「ある」(il y a)という「非人称的な存在という現象」としての「存在することそのもの」たちの関係であり、レヴィナスの云う「あたり一面にひろがる、避けがたい、無名の存在することのざわめき」にあたる。
(2)閉じた自異関係(関係内部に閉じた「自己/異者たち」関係):レヴィナスの云う「自己/他なるもの」関係(「自己」が「他なるもの」を「糧」として「享受」する関係)
 「システム/環境」関係の区別が意識され、システムがシステム自身を「自己」として意識し、その環境を「異者たち」の集合として客体化するが、その「自己/異者たち」関係全体の外側を想像することも、その外側として想像された視点から関係全体を客体化することもなく、「自己/異者たち」関係に埋め込まれた「自己」の視点のみに基づいて「異者たち」と相互作用を交わす関係。ここでは、現実の相互作用のなかにある「自己の視点」だけがあり、その「自己の視点」が相対化されることはない。この意味で、この関係は自己中心的な関係であり、そこでは、「自己」に対する配慮はあっても、「他者たち」に対する配慮はなく、「自己」は行為の主体となっても「他者たち」は行為の主体にならず、ただ反応を返してくる客体にすぎない。
 この関係はレヴィナスの云う「自己/他なるもの」関係にあたり、「他者」のいない「自己」が、単に「いま、ここ、私」とは違うという意味での非—自己、非—私である「他なるもの」を「享受」し知解し把持し取り込む関係である。この関係では、「自己」は絶えず未知の「他なるもの」を新たな征服対象として探し求め、その「他なるもの」を「自己」に摂取さることで「自己」が富裕化され、「自己」が豊かに養われる。こうした「他なるものの『同一者』への変質」が「自己/他なるもの」関係の本質をなす。
(3)自他関係(「自己/他者」関係):レヴィナスの云う「主体/他者」関係(どうしようもなく常にすでに「他者」との関係のなかにあり、他者との関係においてはじめて「主体」でありうるということを「主体」生成の超越的で無根拠な(私にはどうしようもない)根拠として、つまりは「生きてここにあること(生き残ってしまったこと、他者との関係の遅れてしてやってくること、つねにすでに生きてしまっていること)の責め」として引きうけることで「主体」が生成する倫理的関係)
 「自己/異者たち」関係にある「自己」が想像力によって「異者たち」に「自己」を投影することで、「自己」も「異者たち」もともに相互行為の主体となることで生じる。この関係では、二つの主体のどちらもが、想像された相手(他者)の視点から相互に自己を客体化しつつ相対化しながら相手(他者)と相互行為を交わし合う。そこでは、二つの主体のどちらもが、(1)現実の自己と(2)その自己を客体化する相手(他者)の視点として想像された自己(想像された自己としての他者)に二重化され、「現実の自己としての自己」の視点と「想像の自己としての他者」の視点の間を行き来することを前提に相互行為する。つまり、「現実の自己の視点」に加えて、その自己を客体化する「他者としての自己の視点」が想像され、二つの主体のどちらもが「現実の自己としての自己の視点」と「想像の自己としての他者の視点」という二重の視点に立つという前提のもとで、自己と他者が相対化されて互換的な項に変換される。この関係は、「私は他者になり変わり、その際に他者も私になり変わる人物として理解されるが、この事実を私も他者も了解している」ことを前提に相互行為が展開される事態としてアルフレッド・シュッツが定義したコミュニケーションでの関係に相当し、主体と主体を対等につなげる社会性の基礎となる。ここでは自己と他者は相互に互換的で対等な項として想像され、その想像された前提に基づいて相互行為が展開されるため、結果として対等な関係が生成する。この関係は誰に対しても何に対しても事実上無限に拡張してゆくことができるため、人類個体を同種他個体やそれ以外のものと結びつける接着剤として社会性の基礎となるが、その無限の拡張性のため、一つのまとまった集団に収束することはない。
 この関係はレヴィナスの云う「主体/他者」関係にあたり、そこでは、どうしようもなく常にすでに「他者」との関係のなかにあり、他者との関係においてはじめて「主体」でありうるということを「主体」生成の超越的で無根拠な(私にはどうしようもない)根拠として、つまりは「生きてここにあること(生き残ってしまったこと、他者との関係の遅れてしてやってくること、つねにすでに生きてしまっていること)の責め」として引きうけることで「主体」が生成する。この関係では、「他なるもの」を自己に内在化して把持し知解することで「他なるもの」を取り込む「自己/他なるもの」関係とは対照的に、「主体」は「他者」の他者性を毀損しないままに「他者」と出会って交わる。この「他者」の他者性を毀損しないままに「他者」と交わることが「倫理」の基盤となる。この意味で、この「主体/他者」関係は倫理的関係と呼ぶことができる。
(4)開いた自異関係(関係の外を巻き込んだ「自己/異者たち」関係と「自己たち/異者たち」関係):レヴィナスの云う社会関係(「正義の秩序」(「法理的公正」の「裁き」)によって「政治的境位」に生じる社会関係)
 自他関係にある複数の主体のうちの一つの主体が、その自他関係の網の目から切り離された者として想像され、その想像に基づいて、それ以外の主体と一方的な行為を非対称に交わす関係。この関係には、(1)切り離された主体が自己で、それ以外の主体たちが異者となる場合、(2)切り離された主体が異者で、それ以外の主体たちが自己たち(われわれ)となる場合の二種類がある。前者の場合、自他関係の網の目から切り離された立場として想像された主体が、残りの主体たちと相互行為を交わすことなく、その異者たちとしての主体たちを一方的に観察するという想像の場をもたらし、社会科学の基礎となる関係を生成する。他方で後者の場合、自他関係を交わし合う自己たちが、自他関係の網の目から切り離された異者と相互行為を交わすことなく、その異者に一方的な行為で働きかけるという想像の場が生成される。この後者の場が想像され、その想像に基づいて行為が生成されるとき、一つの異者に対して一方的な行為で働きかける自己たち(われわれ)が生成され、無限に拡張する自他関係が、一つの異者に対して一方的で非対称な行為で働きかけるという共通項をもつ集団として分節される。その結果として、主体を結びつける接着剤として社会性の基本ではあるが、無限に接続可能で拡散してしまうためにまとまりのない自他関係のネットワークから、異者に対する一方的で非対称な関係を軸に生成する集団のまとまりが切り取られ、「われわれ」という集団が生成する。
 この関係はレヴィナスが云う「社会関係」にあたる。倫理的な「主体/他者」関係にある二者に第三者が加わることで、「他者」を評価するための「正義の秩序」(「法理的公正」の「裁き」)が要求される結果として「政治的境位」の関係として生じる。

イヌイトの拡大家族集団の生成と維持のメカニズム
この4類型の関係のあり方に基づいて分析を行うと、カナダ極北圏の先住民であるイヌイトの拡大家族集団が生成されて維持されるメカニズムを次のように整理することができる。
(0)レヴィナスの「主体/他者」関係にある「真なるイヌイト」
 イヌイト社会において「思慮」と「愛情」をバランスよく兼ねそなえた「大人」の理想像として目指される「真なるイヌイト」(Inunmariktuq)は、レヴィナスの云う「主体/他者」関係にある成熟した「成人」にあたる。「真なるイヌイト」とは、「思慮」の理念に基づいて相互に相互の自律性を尊重しつつ、「愛情」の理念に基づいて相互に助け合う関係にある「大人」のことだが、レヴィナスの云う倫理的な「主体/他者」関係にある「成人」とは、相手を取り込んで支配したりすることはせず、相手の他者性を損なうことなく相手と交わる倫理的な愛の関係にある者のことだからである。この意味で、他者の他者性を損なうことなく他者と交わる倫理的な愛こそ、イヌイト社会で目指される社会関係の基礎であると言うことができる。
 ただし、この倫理的な「主体/他者」関係が成立するためには相互性が重要に鍵になるため、イヌイト社会の「大人」はルーマンの云う「ダブル・コンティンジェント」なジレンマに常に置かれることになる。「他者」からの責めを引き受けが一方向的になってしまい、愛の双方向性が失われてしまうと、倫理的な「主体/他者」関係が支配と従属の「自己/他なるもの」関係に変質してしまうからである。この意味で、イヌイト社会の「大人」は常に「主体/他者」関係に孕まれる倫理的なジレンマに曝されており、そのジレンマを解決するための装置を必要していると言ってよい。そのジレンマを解決するための装置が次の二つの装置である。
(1)野生生物の異者化(肉化、「他なるもの」化):集団外部との関係の制御による拡大家族集団の生成と維持
 拡大家族集団の外部における狩猟の場で「主体/他者」関係に基づいて「主体」としてのイヌイト個人(ハンター)が相互行為を交わす「他者」(「顔」をもって眼差すもの)としての野生生物個体が、屠殺を通して「異者」(「糧」としての「他なるもの」)としての「肉(食べもの)」に変換され、その「異者」(「糧」としての「他なるもの」)としての肉が拡大家族集団の内部に持ち込まれて分かち合われることで、「われわれ」としての拡大家族集団が生成されて維持されると同時に、その「われわれ」(自集団)と互恵的な関係にある野生生物種が他集団として生成されて維持される。
 ここでは、イヌイト個人(ハンター)との「主体/他者」関係にある野生生物個体(「他者」)が、屠殺と拡大家族集団内部への取り込みによって、イヌイト個人(ハンター)という「主体」と対等で互換的な関係にある「他者」(「顔」をもって眼差すもの)としての地位を奪われると同時に、拡大家族集団の内部でその成員から一方的に共有される(食べられる)「肉(食べもの)」という「異者」(「糧」としての「他なるもの」)に変換される。そのうえで、その「異者」(「糧」としての「他なるもの」)という「肉(食べもの)」に対して拡大家族集団の成員が「開いた自異関係」(「正義の秩序」によって「政治的境位」に生じる「社会関係」)に基づく「分かち合い」という非対称で一方的な相互行為を行うことで、それ以前からあるイヌイト同士の「主体/他者」関係のネットワークを維持したまま、拡大家族集団というまとまりが切り出される。また、この「他者」から「異者」(「糧」としての「他なるもの」)への変換(「糧=肉」化)によって生成された拡大家族集団というまとまりに基づいて、そのまとまりという個体間関係よりも一つ上の次元にある集団のレベルが想像されるようになり、「異者」(「糧」としての「他なるもの」)としての「肉(食べもの)」に変換された野生生物個体が属するはずの野生生物種が、「自集団」と互恵的な関係を結ぶ「他なる集団」として想像されるようになる。こうして、「拡大家族集団というイヌイトの社会集団」と「拡大家族集団と互恵的関係を結ぶ野生生物種」という二つの集団が生成されて維持される。
(2)子どもの他者化:集団内部の関係の制御による拡大家族集団の生成と維持(リクルートの過程)
 拡大家族集団に一つの「システム」(個体:「非人称的な存在という現象」)として生まれ、拡大家族集団の大人たちと「システム/環境」関係(「存在することそのもの」たちの関係)を交わすことからはじめる「幼児」に対して、大人たちが「開かれた自異関係」(「正義の秩序」によって「政治的境位」に生じる「社会関係」)に基づく非対称で一方的な行為(一方的に愛情を注ぐ)で働きかけることで、「システム/環境」関係の「システム」として自己意識をもたない「幼児」(「非人称的な存在という現象」)は、(i)「閉じた自異関係」(「自己/他なるもの」関係)での自己中心的な「自己」としての「子ども」を経て、(ii)対等な「主体/他者」関係での「他者」としての「大人」に変換されてゆく。
 この変換の第一段階では、「幼児」を「一方的に甘やかす」という方法、第二段階では、「子ども」を「一方的にからかう」(イヌイト社会においては、「甘やかし」と並ぶもう一つの愛情の注ぎ方)という方法が採られる。このとき、「大人」たちの視点からは「幼児」も「子ども」も「開いた自異関係」(「正義の秩序」によって「政治的境位」に生じる「社会関係」)における「異者」(愛を一方的に注ぐことで自らの倫理的優越性が「享受」される「他なるもの」)だが、「大人」たちは「幼児」にとって「環境」(「非人称的な存在という現象」)、「子ども」にとっては「閉じた自異関係」(「自己/他なるもの」関係)における「異者たち」(「糧」としての「他なるもの」)となる。
 この過程では、(1)生物個体という「システム」としての幼児(「非人称的な存在という現象」)から、大人たちと対等で双方向的な「主体/他者」関係を交わし合う「他者」としての自律した「大人」が生産され、拡大家族集団の成員が補充されリクルートされるだけでなく、(2)対等に双方向的な「主体/他者」関係を交わす自律した「大人たち」が、「開かれた自異関係」(「正義の秩序」によって「政治的境位」に生じる「社会関係」)に基づく一方的で非対称な行為(一方的に愛情を注ぐ)で「幼児」と「子ども」(愛を一方的に注ぐことで自らの倫理的優越性が「享受」される「他なるもの」)に働きかけることで、対等で自律した「大人」たちの集団である拡大家族集団が生成される(「他なるもの」を媒介した社会性)。つまり、拡大家族集団の生成と維持がその成員のリクルートと同時に行われる。

集団を生成して維持する能力:想像力による関係の変換と組織化
 こうした集団の外部と内部の関係の操作と制御によるイヌイトの拡大家族集団の生成と維持のメカニズムから次の二つのことがわかる。
(1)想像力による関係の変換を通した個体の変換(「システムとしての幼児」:「非人称的な存在という現象」)から「異者としての子ども」(大人から愛が一方的に注ぐことで大人の倫理的優越性が「享受」される「他なるもの」)を経て「他者としての大人」(「主体」)へ/「他者としての動物個体」(「顔」をもって眼差す「他者」)から「異者としての肉」(「糧」としての「他なるもの」)へ)を媒介に、(i)自律したイヌイトの「大人」(「主体」)同士の対等な「主体/他者」関係の拡張、(ii)自集団(イヌイトの拡大家族集団)と他集団(野生生物種)という集団レベルの自他関係、という二つのレベルの「主体/他者」関係が生成される(「他なるもの」を媒介した社会性)。
(2)想像力による関係の変換によって、対等な「主体/他者」関係にある自律した他者たちを一方的かつ非対称にひきつけるブラックホールとしての「異者」(「異者としての肉」と「異者としての子ども」:「糧」としての「他なるもの」)を生成し、そのブラックホールに対して一方的で非対称な行為で共通に働きかけることで、自律した「他者」たちの対等な「主体/他者」関係を温存しつつ、一つの社会集団にまとめ上げることができる(「他なるもの」を媒介した社会性)。 このことから人類の社会集団の生成と維持に関して次の仮説を導き出すことができる。
(1)人類の社会集団が生成されて維持される際には、社会集団の再生産に必須の資源を(i)外部から取り込む過程と(ii)内部から生み出す過程を想像力によって制御すること(変換と組織化)が要になっている。
i. 外部から取り込む過程:集団内の個体の生存に必要な資源を外部から取り込む生業システム(「他者」としての野生生物個体を「肉」という「食べもの」という「異者」(「他なるもの」)に変換して取り込む)。
ii. 内部から生み出す過程:集団の再生産に必要な自律した他者の集団内で生成する生殖と養育のシステム(「システム」(「非人称的な存在という現象」)としての「幼児」を「異者」(「他なるもの」)としての「子ども」を経て「他者」としての「大人」に変換してリクルート)
(2)人類の社会集団の生成と維持にあっては、自律した「他者」同士の対等な「主体/他者」関係を基礎に、それぞれの他者の自律性と対等な「主体/他者」関係を維持したまま、社会集団というまとまりを生成して維持するための方法、つまり「自律」と「連帯」を両立させるための方法が解決されるべきもっとも重要な問題となる、つまり、レヴィナスのことばで云えば、倫理的な「主体/他者」関係の「愛」を維持しつつ「社会」を生み出すことが重要な問題となる。

暫定的な結論
 以上のようにイヌイトの社会生成の装置とレヴィナスの「他者」論のパラフレーズすることを通して、人類の社会性と倫理の進化史的基盤について、さらにはレヴィナスの「他者」論を人類学が継承する可能性について、次のことが明らかになった。
(1)「真なるイヌイト」とは「主体/他者」の愛の関係を双方的に実現する「大人」のことであり、イヌイト社会の倫理の基盤は「主体/他者」の愛の関係を損なうことなく、二者間関係に閉じてしまう「主体/他者」関係を多者間関係へと拡張して「社会」を生成することにあるが、こうした「主体/他者」の愛の倫理的な関係は人類に普遍的な倫理の基盤でありうる。
(2)イヌイト社会における二つの装置にあるように、人類社会においては、「主体/他者」の愛の倫理的関係を損なうことなく、二者間の愛の関係を多者間関係の「社会」に拡張する方法には、レヴィナスがあげる「裁き」だけではなく、他にもさまざまな方法があり、その方法は「主体/他者」関係と「自己/他なるもの」関係のさまざまな変換操作によって実現されている可能性がある。その多様な方法をさまざまな人類社会ごとに民族誌的な細部に注目して明らかにすることで、レヴィナスの「他者」論に基づいて人類の社会性と倫理の進化史的基盤に迫ることにこそ、人類学の任務であると考えることができる。

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第13回研究会での発表内容

1.「『顔』と他者―ムスリム女性のヴェール着用をめぐって」(西井凉子)

 身体存在としての人間のあり方において、「顔」は身体の一部でありながら、強いイメージ換気力をもつ。「顔」をめぐる考察は、自己と他者をめぐる考察へとつながる。本発表では、ムスリム女性の「顔」を覆う行為をめぐって、他者にかかわる存在論へと展開することを試みた。

「顔」の成立
 「顔」の原型の成立は、生物学的には、管の穴であり、免疫系の成立と同時であると言われている。「即物的に見れば、人間は多数の管(チューブ)から成っている。・・中でも最も基本的な管は消化管である。というより、人間そのものが消化管という管を内腔とした、巨大な管と見ることもできる。」(多田:166)このように、人間を管の穴とみると、「顔」は、生物としての身体をもつ人間と、自己と他者という社会関係に開かれものとして考えるときの交点となる重要な位置をしめる。
 免疫系は「自己」と「非自己」を鋭敏に見分けて、「非自己」を排除する反応を起こすものと定義されてきた。しかし、免疫学的には、自己と他者の境界は可変的・流動的なものであるといえる。多田は、「昨日まで 『自己』であったものが、今日は『非自己』となり得る。それぞれの時点では『自己』の同一性というものが存在することを認めたとしても、本当に連続性を持った『自己』というものが存在するのであろうか」と問う。「自己」とは、その免疫系の行動様式によって規定され、「自己」の行為そのものであって、「自己」という固定したものではないことになるという(多田:219-220)。
 ここでは、生物としての人間の身体の側からは、自己を表わす「顔」はその根幹から崩され、流動的な自己がそのもとにうごめいているといえよう。

「顔」の不在
 一方、自己と他者の社会関係において、「顔」の不在は何を示しているのであろうか。
 鷲田は「顔の不在がひとを不安にするのは、おそらく、その顔がもはや何かとして限定できない曖昧な存在へと移行したからである」という(鷲田:34)。
 「顔の不在とは、人びとがたがいに自己を相手のなかに鏡像のように映しあう、そのような相互理解の関係に入ることの不可能性のことであり、したがって覆面や仮面で顔を覆うことは、私と他者とが滑らかな交通関係に入ることの一方的な拒絶を意味している(鷲田:36)。」

ムスリム女性の顔を覆うヴェール
 本発表では、タイのミャンマーとの国境の町メーソットにおけるヴェールで顔を覆うムスリム女性の事例から、顔を覆うことについて考えた。はたして、ヴェールで顔を覆う女性は、他者との交通関係を拒絶しているといえるのだろうか。
 顔を覆うことを決意した女性たちは、タイ語でダッワと呼ばれる1930年代にインドから始まったイスラーム復興運動に関わっている。彼女たちは、女性と親族男性の間でのみヴェールをとる。つまり、彼女たちの顔の表情は、特定の人のみにみせる。
 多くの女性は、ヴェールで顔を覆った動機を、10人前後で各地をまわってイスラームの勉強をするダッワに出ている間の仲間の女性からの影響をあげる。サイダー(38歳)はそのことを次のように語った。
「ダッワにでている間、私以外はみんな顔を覆っていた。40日のダッワから帰ってきてから、私も顔を覆いたくなって覆った。・・顔を覆うことであの世で報酬を得られるし、この世では安全を得られる。」
 ファティマ(28歳)は顔を覆い始めたときには、自分にできるだろうかと思った。しかしやってみるとよかった。当時の夫はそれを嫌がり、やめさせようとした。その後、彼女や子供に暴力をふるっていた夫と別れるが、現在は、元夫が働いている南タイからメーソットに帰ってきた時に道であっても、挨拶をすることなく彼を避けることができる。「顔を覆っているから、彼を無視することができる」という。
 顔を覆うことで、多くの女性がその生活の変化を感じている。彼女たちは、「心がより平穏になり(citcai sagop khun)、幸福になり(mi khwam suk)、ここちよくなる(sabai cai)」という。また、ある女性は、夫がより愛するようになったという。
 顔を覆い始めて9年のラフマット(42歳)は、20歳で結婚し、16歳の娘がいる。ラフマットは次のように語る。「アッラーは彼に愛情を入れてくれた、なぜなら私が顔を覆っているから他の女性とは異なっている。他の男性は私の顔を見ることはできない。彼の視線では私は永遠に美しくみえる。彼はいつも『きみは美しい』という。」

二つの「顔」
 ムスリム女性の顔を覆うヴェールを被った姿からは、年齢も容貌もわからないし、対面状況でどのような表情をしているのかも見ることができない。ここでは、二つの「顔」をみておく必要がある。

 「顔」T レヴィナスのいう、他者と接するとき、語り合うときに眼前にあるものの根本的「不可視性」を読者に認識させる「顔」。レヴィナスの独自性は、「顔」を視覚のパラダイムから言語(呼びかけと聴取)のパラダイムに移行させたこと、そして「顔」を無限者と見做しながらもそこに「人間」を見て取ったことにあるという(郷原:286)。
 ヴェールで顔を覆った女性を、男性はみつめてはいけないと感じる。また、顔を覆う女性は、男性の前で顔を出すことで恥ずかしいと感じることは、レヴィナスの「顔」に通じるだろう。「顔」が面である身体の凝縮であるとすると、それは、「顔」を見てはいけないというメッセージを発するとともに、一方で、ヴェールで覆われた全身が、「ムスリム女性」であるという強烈なメッセージとなった「顔」を生成しているともいえる。
 「顔」U ドゥルーズ=ガタリの「倫理」(エティカ)にとって顔とは、むしろ記号やイメージや主体の形成に深くかかわる装置であり、触発し触発される情動の力を覆い囲むような主体化や領域化の様式である(宇野:152)。

 ヴェールの下の顔を特定の人にのみみせることは、特異性の保持により、共同性を能動的に作り出そうとする仕掛けとなりうるだろうか。ダッワの勉強会に集まった顔を覆う女性たちは、他の人々にとっては、他者として集合的なムスリム女性の「顔」を形成しているともいえるかもしれない。
 「顔」は、生物学的身体と社会関係の交点において、融通無碍な自己と他者の関係、意識と意識を越えた現象として現れる現実の様相を凝縮している場であるといえよう。

【文献】
  • 内田樹 2004『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』海鳥社.
  • 内田樹 2011『レヴィナスと愛の現象学』文春文庫
  • 宇野邦一2012『ドゥルーズ 群れと結晶』河出書房新社.
  • 大橋完太郎 2013「かくも味わい深き他者の顔」『ユリイカ』8月号臨時増刊:83-90.
  • 熊野純彦 1999『レヴィナス入門』ちくま新書.
  • 熊野純彦 2003『差異と隔たり 他なるものへの倫理』岩波書店.
  • 熊野純彦 2012『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』岩波書店.
  • 郡司ペギオ-幸夫 2013『群れは意識をもつ 個の自由と集団の秩序』PHPサイエンス・ワールド新書.
  • 合田正人 2011『レヴィナスを読む〈異常な日常〉の思想』ちくま学芸文庫.
  • 郷原佳以 2012「『顔』と芸術作品の非‐起源」『現代思想』vol.40-3:285-299.
  • 多田富雄 1993『免疫の意味論』青土社.
  • 港千尋 2010『考える皮膚 触覚文化論』青土社.
  • 港道隆 2012「現象学から顔―痕跡へ、そして代捕」『現代思想』vol.40-3:85-127.
  • レヴィナス、エマニュエル 1999『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫.
  • 鷲田清一 1998『顔の現象学 みられることの権利』講談社学術文庫.

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2.「祖霊・呪い・日常生活における他者の諸相─ザンビア農耕民ベンバの事例から」(杉山祐子)

1.「集団」から「他者」へ
 本発表では、『集団』(河合香吏編, 2009)に所収の拙論(杉山2009)で展開した議論をふまえ、人類の進化的基盤を視野にいれながら「他者」を考える筋立てを示した。事例として扱うのは、ザンビアの焼畑農耕民ベンバである。母系制をとるベンバは伝統的王国を形成しているが、居住集団はきわめて小さく、人や集落の移動性が高い。
 『集団』に所収の拙論では、高い移動性を担保しながら、小さな居住集団を一大王国へと編み上げていくしくみについて論じたのだが、そこで強調したのは、「いま・ここ」における相互交渉の連鎖によってゆるやかにうみだされる「非構造」の集まりの重要性である。非構造の集まりでは、自-他の区別よりも、時空をともにする行為─シェアリングがむしろ顕在化し、人々の行為やその同調がつくりだす「その場性」が重要である。このことを考えると、人間の集まりにおいて「他者」がいつも存在しているとはかぎらないということができる。また、非構造の集まりを可能にする間主観的・間身体的認知や共感力は、ヒトのみならず、高等霊長類が共通してもつ能力であると前提できる。その上で、本発表では、言語をもつヒトに独特な「他者」のありようを検討した。

2.多層性をもつ構造化の局面と他者のあらわれ
 「非構造」の集まりとは異なり、ベンバの日常生活において、自─他のちがいが強く意識され、構造化の局面が現われるのは、集団の維持や世代交代など、より長いスパンでの集団を考えるときである。そこでは、非構造の集まりにおけるアプリオリな共在から互いを切り離す行為が生じ、境界のはっきりしたグループ化がおこなわれる。それはたとえば婚姻関係や同盟関係などがあげられるが、ベンバの場合、世代交代期の男性の同盟と女性からの信頼が集団の形成と維持を左右するので、世代ごとや社会的地位ごとの境界作りとグループ化がはかられる。このような過程では、「他者」がことさらに意識される局面とそうでない局面が、異なる社会的場面に応じてあらわれるという、社会的局面の多層性を指摘することができる。
 そこで、このような多層性を視野に入れて、ハーマンスとケンペン(2006)の「対話的自己」、かれらが下敷きにしているG.H.ミード(1934)の「一般的他者」などの議論から、多数の自己と多数の他者という考えかたを用いる。

3.ベンバにおける「他者」の諸相
 ベンバの生活にあらわれる「他者」の諸相は次の4つに分けられる。すなわち、A)顕在化しない他者、B)過去のワタシ、他者によって決められる「身におぼえのないワタシ」という他者、交渉可能な他者、C)絶対的他者、D)身のうちにある超越的他者、である。
 A)は、非構造の集まりにおける他の人びとがそれにあたる。同調行為、相互行為およびその繰り返しが、集まりの場を生成する。B)は、自分自身でありながら、そのありようを他の人びとによって決められてしまうという意味で、自分にとっても「他者」である自己のありようである。ただし、このような「他者」は相互理解できずとも交渉可能であると位置づけられるのが特徴である。ネットハンティングの不猟や村内のもめごとがあらわれた際に、そうした問題の解決にむけた「交渉相手」や浄化儀礼の重要な参加者として、このタイプの「他者」が顕在化させられる。
 C)は、「自分の近親者を呪い殺して自分の力を強め、それを喜ぶ」といわれる邪術者であり、交渉も共存もありえないが存在してしまう絶対的他者である。D)は、ベンバの祖霊信仰や生殖観と関わり、それぞれのベンバの身のうちにある超越的他者である。女性が妊娠すると、そのへそから祖霊(始祖のベンバ王たち)が胎児の身体に入るとされ、ベンバである「ワタシ」の身体の芯には祖霊がいるといわれる。どの祖霊が入ったかは母親かオバが夢見で知る。同じ祖霊が他の村びとのなかにもいる。

4.集団の離合集散と「他者」をつくる物語の共有
 上記のような他者の諸相は、祖霊信仰と呪いに関わり、相互に密接なつながりをもつ制度である。そのあらわれには、「物語(ブルナー、1998)」が付随するが、いずれも特定のことばと呪医などの専門家の介在があってあらわれる。その物語によって、他の村びと(個体)は物語のなかに、ある位置をもった「他者」として位置づけられ、「われわれ」との境界線をきわだたせる。どのような文脈による物語が創り出されるかで、「われわれ」の内容も変化する。このような道具だてを利用して、日常に起こるさまざまなできごとを関連づけ、複数の人びとが共有する物語がつくられることがある。とくに世代交代期につくられる物語は、それまで共に暮らしていた他の村びとを「絶対的な他者」として自分たちから切り離すはたらきをする。
 ベンバの村が分裂するとき、それぞれの物語を共有する人びとがまとまって移住する傾向が強い。ただし、この物語は不変ではなく、村が再生するときなど、状況が変化すると、新たな「他者」の物語として語り直され、一度離散した人びとがふたたび共に暮らすための道筋を示すこともある。

5.ベンバにおける他者の諸相から考えられること
 これまで述べてきたことから、以下の諸点を指摘することができる。
1)他者は局面によってさまざまにあらわれる。私たちは日常生活において他の人との相互行為を実践するという経験をとおして、このことを知っている。社会的局面の多層性と同様に、「他者」のあらわれも多層的であり、個人はさまざまな「他者」として可変的にあらわれる。
2)非構造の集まりのように自-他の違いを問わない局面がある一方、構造化する局面では、本来つながっている他の人を「絶対的な他者」にしたてあげるやりくちがあり、そこに物語が大きくかかわる。
3)ベンバにおける他者の諸相から、集団の離合集散にかかわる制度的しくみの土台がみえる。それはたとえば、「身のうちにある超越的他者としての祖霊」という考えかたがあり、同じ祖霊が他のベンバの身体のなかにも存在することから、ベンバどうしは相互に分ち難くつながっているという前提がある。相手が理解不能な「他者」であったとしても、その関係は切断されていはいない。このように、あらかじめ完全な社会関係の切断が不可能な道具立てをしておきながら、村の世代交代の時期などには、共に暮らしてきた人びとを「絶対的な他者」として切り離すところに、集団の分裂と再生にかかわるしかけがあると考えられる。

【文献】
  • ミード、G.H. 1995 『精神・自我・社会』人間の科学社(原著1934)
  • ハーマンス&ケンペン 2006『対話的自己』新曜社(原著1993)
  • ブルナー、J. 1998『可能世界の心理』みすず書房(原著1986)
  • 杉山祐子 2009「われらベンバの小さな村」河合香吏(編)『集団』京都大学学術出版会

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3.「比較発達心理学的観点からみた発達初期における『他者』の存在」(水野友有)

 本発表では、発表者がこれまで取り組んできた研究、特にチンパンジーの発達研究と、発達心理学におけるこれまでの「他者」にかかわる研究を紹介しながら、比較発達心理学的視点からみた発達初期における「他者」に関する発表者の考えを報告した。

1. 発達心理学における「自己」と「他者」
 発達心理学において「他者」を考える場合、必ず「自己」の発達の話題が取り上げられる。特に、自己認識の発達は古くから研究されてきたトピックである。自己認識の発達を調べる最も有名な研究が鏡像認知だろう。鏡像認知とは、ある個体に鏡を提示して、個体が鏡に映った像を自己のものだと認識することであり、鏡像のマークテストによって自己認識の発達が調べられてきた。その対象は、ヒト乳幼児をはじめ、チンパンジー、イルカ、アジアゾウまで幅広い。ヒト乳幼児は、生後1歳以前は、鏡に映った自己像に対して「他者」に対する反応のようなふるまいであり、生後1歳以降は、鏡に映った自己像を自分だと認識するようになる。発表者が実際におこなったヒト乳幼児を対象にした鏡像実験では、生後7ヶ月は鏡像に対する微笑反応やリーチングがみられ、生後2歳児は、わざと変な顔をしたり、踊りだしたりする反応がみられた(映像で紹介)。
 鏡像認知を含む自己意識や自己認知に関する研究の結果をもとに、「自己」をどのように対象化し、そこに何を認知しているのか、自己意識と自己認知の発達を概観した。生後0〜3ヵ月では、自他の区別の意識はないが、養育者の表情にあわせた表情を表出するなどの共鳴動作がみられる。生後3〜8ヵ月では、不確実ではあるものの自他の区別ができ始める段階となる。たとえば、生後6ヵ月ぐらいの喃語を話す乳児が養育者と対面でやりとりをしている場面で、養育者が発話しているときに乳児は黙って養育者を見つめ、養育者が話し終わると乳児が発声しはじめる。こうした「他者」との会話様のやりとりが可能になる時期である。一方この時期には、まだ鏡像に対しては社会的反応を示し、自己認知はできていない。生後8〜12ヵ月には、「他者」の注意を引くような行動が増え、鏡像での連動性を確かめはじめる。1歳〜1歳半になると、自分の名前に対して反応し、鏡像の自己認知も可能になる。このようにヒトの場合、生後間もない時期からの「他者」との交渉を基盤にして、乳児期後半までに「自己」を意識し、「自己」を認知するようになると考えられる。
 1980年代以降発達心理学において急速に進んできた「他者」理解についても触れた。心の理論の研究である。心の理論とは、「他者」にも心があることを知っており(他者への心の帰属)、「他者」の心のはたらきを理解し(他者の心的状況の理解)、それに基づいて「他者」の行動を予測すること(他者の行動の予測)ができる力のことである。有名なサリー・アン課題をはじめとする様々な誤信念課題により、4〜5歳で獲得されるといわれている。言語教示を必要としない実験により、乳児期後半(生後15ヵ月)において心の理論の萌芽がみられるという報告もある。

2. 発達初期における「他者」との関係−Bowlbyによるアタッチメント理論
 個の発達において初めて出会う「他者」は一般的には親、養育者である。発達初期の「他者」を考える上で、古い理論ではあるがBowlbyのアタッチメント理論を概観した。イギリスの児童精神科医・精神分析家だったBowlbyは、第二次世界大戦における戦災孤児に関する体系的調査をきかっけに母性的養育の剥奪について報告した後、エソロジーとの邂逅により発想を転換したことからアタッチメント理論を提唱した。Bowlbyが提唱したアタッチメントやその発達プロセスを改めてまとめてみると、Bowlbyの理論は、心理学のみならず生物学や比較行動学などの粋を集めたグランドセオリーであったこと、アタッチメントの最大の機能は個体の生存を行動に保障することとしたことが再確認できる。

3. ヒト乳児を対象とした「他者」に対する反応に関する研究(プログレスレポート)と比較発達心理学的考察
 発表者が現在とりくんでいる乳児研究を紹介した。対象は、生後1週から仰臥位で安定していられる時期(生後4・5ヵ月)で、発達初期における「養育者」と「養育者以外の他者」に対する反応の発達を明らかにする研究である。特に、対象児の笑顔の表出を指標として実験的観察をおこなっている。観察場面は、対象児が一人で過ごす単独場面、非接触で養育者が対面あやす場面、非接触で養育者以外の他者が対面であやす場面とし、それぞれの場面において対象児がどのような表情を表出するかを観察した。
 現時点での結果は、「養育者以外の他者」に対して、生後2〜3ヵ月をピークに親和的な反応を示し、生後4ヵ月以降になると、笑顔やリーチングなどは見られず消極的な反応、あるいは泣くといった拒否的な反応になった。またこの時期になると、泣いていた対象児が養育者に抱かれると泣き止むなど養育者を選好する行動がみられた。
 こうした結果から、ヒトの発達初期において生後2〜3ヵ月までは多様な「他者」への適応期であり、「自己」と「他者」の区別や「他者」との関係性に関係なく、目の前の「他者」とコミュニケーションを成立させる時期であると考えられる。生後4・5ヵ月以降になると、脳の発達も踏まえて養育者への選好が強まり、人見知りや分離不安などが出現しする、つまり特定の「他者」との関係を構築する時期へと移行すると考えられる。
 またこの時期は、寝返りやハイハイ、独歩へと、自ら姿勢をコントロールできるようになる時期である。自ら移動可能になった乳児期後半における養育者に対する選好的・求心的な行動は、運動発達的には乳児が養育者から物理的に離れることはできるが、心理的に養育者を選好するため、乳児と養育者との間に一定の距離保つことができるといえる。本研究において、今後は、多様な「他者」への適応期だと考えている生後2〜3ヵ月にさらに焦点をあて、多様な「他者」を具体的に挙げ、「養育者」と「養育者以外の他者」以外の「他者」に対する乳児の反応に関する実験的観察を試みたいと考えている。
 最後に、比較発達心理学的視点からみたヒトの発達初期における「他者」の存在とは、乳児に対して物理的に離れていることが重要であり、離れていることが乳児の主体的な行動を引き出し、さらにこうした状況や文脈がヒト乳児の認知機能の発達に関連しているのではないか、としてまとめた。

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第14回研究会での発表内容

1. 連続と不連続−移籍再考 [前編:認知と共感−他者理解の進化](早木仁成)

 海を回遊するイワシの群れは、海中で撮影された映像などを見れば、その群れ自体が白銀に光る巨大な生物のようである。マグロなどの捕食魚がその群れに突進すれば、群れはあっという間に伸縮して突入をかわし、再び元の巨大な姿に戻る。個々のイワシ個体は、巨大生物の一部品であるかのように、互いに同調し、協調して群れを維持している。渡りをする鳥類の群れや、長距離の季節移動をするヌーの群れなど、「無名の群れ」を形成する多くの動物たちは、その群れを維持するために周囲の他者と見事に同調する能力を備えている。このような周囲の他者と共振して行為を一体化させる能力を<同調能力>と呼ぶことにする。同調能力は、おそらく捕食者対策として進化したと考えられるが、その起源はかなり古いということが予想される。
 ニホンザルのように安定したメンバーシップの顔見知りの集団を形成する動物が、その集団を維持しながら遊動することができるのは、移動・休息・採食などの活動のリズムを集団内の他者と同調させているからだろう。外敵や捕食者などが出現した場合には、ばらばらに逃走するのではなく、周囲の他者と同調して同一方向に逃走するし、場合によれば外敵に対して一斉に威嚇することもある。群れ内の個体が他者と同調して同一行動をとる場面は、さまざまな状況で見ることができる。
 一方で、人間ほど、他者の行為に完全に同調することができる動物(哺乳類)はいないかもしれない。軍隊の行進やスポーツの応援に見られる動作の完全な同期は、行為の図式を共有した作為的な同調である。演奏や合唱などの音楽や集団でのダンスなども完全な同期を要求する。重い物を協力して持ち上げるときには、呼吸を合わせる合図(せーの)を用いて同調し、単独では不可能な重量の物の移動を可能にする。
 このような同調能力を基盤として、他者と情動や気分を共有することを<共感>と呼ぶことができる。ドゥ・ヴァール(2010)によれば、共感は1億年以上も前からある脳の領域を働かせる。この能力は、運動の模倣や情動伝染とともに、遠い昔に発達し、その後の進化によって次々に新たな層が加えられ、ついに私たちの祖先は他者が感じることを感じるばかりか、他者が何を望んだり必要としているかを理解するまでになったという。
 犬や猫が飼い主の気分をまったく読み取っていないとはとても考えられない。もちろんサルも同様である。動物、とくに哺乳類には、周囲の他者の気分や情動を感じ取る能力が備わっている。チンパンジーなどにしばしば見られる宥和行動、慰撫行動、仲直りなど、相手の興奮を落ち着かせたり、恐れを取り除いたり、元気付けたりする行動は、他者の気分や感情を読み取ることができなければ、ありえない。このような他者理解の方法を<共感による他者理解>と呼ぼう。共感による他者の情動理解は即時的であるが、それだけではうそをついたり、うそを見破ることは難しいかもしれない。
 ヒトの乳幼児の他者理解は、いくつかの発達的プロセスを踏むようである。リード(2000)やトマセロ(2008)によれば、生後3ヵ月ごろまでに乳児は自己のエージェンシーと他者のエージェンシーを理解し始め、自己のエージェンシーのコントロールを学習し始める。生後9ヵ月ごろには、三項的な共同注意フレームを発達させて、「意図をもつ存在」としての他者を理解し始める。さらに、4〜5歳頃になって、他者を「心をもつ存在」として理解するようになる。このような他者理解を<認知的他者理解>と呼んでおく。他者理解の発達はおそらく自己理解の発達と表裏一体の関係にある。
 認知的他者理解も、共同注意の発現に見られるように、その始まりは他者(養育者)との同調、同一化にあると考えられる。他者も自己と同様に意図をもつ存在であること、すなわち他者の自己性を理解すると、他者の視点で物事を見ることが可能になる。ただし、この他者理解は自己理解の成熟度に応じたものである点には注意を要する。ごっこ遊びにふける幼児は、遊びのなかで自分以外の他者になる経験を延々と積む。ごっこ遊びにおいて役を演じることは、自分以外の他者の視点で事物を操作することである。といっても、幼児たちは4〜5歳になるまで、まだ「心の理論」の理解は十分ではないことが知られている。おそらく、この時点では<共感的他者理解>と<認知的他者理解>がまだ未分化な状態にある。
 このようなヒトの乳幼児の他者理解発達過程は、多少モディファイすることで人類の進化史のなかに位置づけることができる(ミズン、2006)。おそらくヒト属が出現した頃、人類は「心をもつ存在」として他者を理解する認知能力を高め、それが他者への共感能力をさらに高めたのだろう。認知的他者理解と共感的他者理解は、相互に影響を与えながら、共進化してきたのではないかと思われる。
 認知能力の進化は、「私」と他者とのかかわりへの理解を深化させてきたが、一方で、共感による他者の情動理解は、共同で音楽をつくる人たちに見られるように、自己と他者の一体化を促進して「私」やその私と共同する「他者」を消滅させ、「私たち」という集団を生み出す。そこには同時に、「私たち」の外側にいる新たな「他者」が生み出されることになる。つまり、<私/他者>の消失が<私たち/他者>を生成する。
 「私たち」とは、その構成員に期待されている事柄が共有されているという意味で、制度としての集団の端緒であり、<私たち/他者>の生成とその進化を検討することは、「集団」、「制度」、「他者」を統合することになる。

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2.「暴力とセックスからから他者を考える」(田中雅一)

 性(セックス)と暴力は、自他の関係を考えるうえで無視できない。一般に性は自他の親密性を暴力は対立を表すと想定できるが、性暴力やサディズム(性のエロス化)という言葉が示唆するように、両者はときに結びつく。
 他者研究に携わるにあたって私が念頭においているのは、本研究会でこれまで取り上げた集団や制度と同じように、マクロ(構造)の構築にミクロ(個人的なトランザクション)がどのように関わるのかという視点である。つまり、構造的な自他の分節世界と自他の境界構築(他者化、排除と包摂化)のせめぎあいに関心がある。自他の境界構築とは、自他関係の流動性を論じることでもある。たとえば、これまでの仲間(自己の延長)が他者になるとき、あるいは反対の場合、なにをきっかけとするのだろうか。そこではどのような形で他者化が実行されるのだろうか。本発表ではその際暴力とセックスに注目する。同時に、暴力やセックスとは社会関係の構築や破壊にどのような役割を果たしているのかについても考察を進める。
 さらに、他者表象における性や暴力の要素にも注目する。たとえば、過剰に性的存在は、私たちと違って淫乱、不道徳、ふしだらとみなされ、本来ならあり得ない様な形で、性的に(ストレートにあるいは合意なしに)ふるまうことが正当化される。暴力についても同じことが言えよう。過剰に暴力的存在は、私たちと違って粗暴、野蛮、不作法であるとみなされ、暴力的だから危険だ、これを避けるために暴力的にふるまうことが正当化される。他者に向けられた暴力は、自集団の結束に不可欠である(ルネ・ジラール)と考えると、私たちはつねに他者を過剰な存在と表象し、自分たちの暴力的ふるまいを正当化し、さらに自分たちの結束を高めてきたのである。これは、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』でオリエンタリストたちのオリエント表象について論じたことである。
 以上のような問題意識から、まず自他の境界上に位置すると言える誘惑者ならびに誘惑の概念について説明する。つぎに具体的な事例として、セックスワークならびに名誉殺人について考察を行う。
 誘惑は両義的な概念である。積極的には、親密な自他関係が成立するきっかけとなる行為であるが、同時に、人を陥れる危険な行為として警戒される。前者の意味での誘惑とは、自分の弱みを見せることで他者に能動的に関わる可能性を拓くことである。すると今度は他者が誘惑者となって、自己が能動的に行為することを促す。誘惑とは、能動と受動をめぐって自他関係がめまぐるしく変化する状況を生み出すことである。これに対し、後者の否定的な意味では、一見他者が能動的にふるまうような状況を導くかに見えて、最初から最後まで他者を支配し利潤を独り占めにするという自己(誘惑者)の意図によって統御されているような状況である。
 セックスワーカーもまた誘惑者として表象される。否定的な意味では、ぼったくりや性感染症などのリスクを想定することができる。しかし、セックスワーカー自身はどう思っているのか。経済的な安定を目指して、多くのセックスワーカーは自分を指名してくれる常連客の数を増やそうとする。具体的には感情労働を駆使して顧客に好意を持ってもらうことである。しかし、それは顧客に勘違いを引き起こす危険な行為でもある。「好きならお金を払う必要がないだろう?」と主張されたり、ストーカー被害にあうからだ。
 二つ目に取り上げるのは名誉殺人(honor-killing)である。名誉殺人とは、女性の不道徳な行為がその家族や帰属集団(家族、親族、村落、カースト、宗教集団など)にもたらす不名誉を取り除き、名誉回復の手段として行われる暴力(当事者である女性やその相手の殺傷)を意味する。不道徳な行為とは、婚前の性関係、親が認めない婚姻関係、そして妻の不貞などである。その特徴は、多くの場合家族(とくに父親、その兄弟、あるいは当事者の女性の兄弟)が女性の殺害に直接関わるという点である。つまり、自己の一部とも言える娘や姉妹が(誘惑者として?)性的な行為を行うことで、他者とみなされ、さらには彼女の行為によって損なわれた家族の結束を再生するために、殺されるのである。このような行為は地中海から北西インドまで広く認められるが、こうした地域出身の人たちの移民先にも拡散している。名誉殺人は、性と暴力が自他境界の侵犯と再生に深く関わっていることを示している。

参考文献
  • 田中雅一 2009「エイジェントは誘惑する――社会・集団をめぐる闘争モデル批判の試み」河合香吏編『集団――人類社会の進化』京都大学学術出版会.
  • 田中雅一 2012「名誉殺人――現代インドにおける女性への暴力『現代インド研究』2:59-77.
  • 田中雅一2014「現代インドにおける女性への暴力」椎野若菜編『境界を生きるシングルたち』人文書院.
  • 田中雅一2014「シングルを否定し、肯定する――日本のセックスワークにおける顧客と恋人との関係をめぐって」椎野若菜編『シングルのつなぐ縁』人文書院.

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第15回研究会での発表内容

 

本研究課題は今年度(2014年度)末を以て終了するため、来年度(2015年度)の成果論集の刊行に向けたミーティング(編集会議) を行った。具体的には、各自執筆予定の内容の要旨をあらかじめ提出し、当日はこ れをもとに出席者全員がおのおの執筆内容について口頭発表し、質疑応答とディス カッションを行った。なお、当日欠席したメンバーで成果論集に執筆予定の者につい ては、要旨を前もって提出してもらっていたが、これについては取り扱う時間がま ったくなかったため、後日MLなどを使って質問、コメント等を送ることとした。

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